人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

「数の暴力」

 
この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

 民主主義こそが、すべての人間が自由になるために人間が勝ち取ったものとして学校では教え込まれる。しかし、これは本当に正しいか。本当に民主主義は善なのか。
 ところで、政治家がよく言う「民意を問う」の「民意」とはなんであろうか。これは辞書的には「国民の意思」を指す。全国民がある統一的な意思を持っていて、それに問いかけるかのような響きに聞こえてしまう。
 しかし、この民意こそ最も怪しいものである。民意などといっても、国民個人個人がそれぞれ考えていることなど違うし、誰一人同じ考えをもった人などいないのである。そんな中に統一的な民意など見つけられるはずがないし、事実見つからない。民意などといったものは、ごまかしの言葉にすぎない。この「民意」は「世論」とほぼ同義に使われているのだろう。
 世論とは何か。「ある問題に対する世間一般の意見」と辞書的に定義される。「世間一般」の意見、なんとあいまいな言葉か。当然国民すべての意見を参照するはずもない。だがここに問題があるのではない。代議制、間接民主制だから問題にするのではない。直接民主制でも問題は同じである。
 世論を形成するのは、テレビ・新聞などのメディアである。しかし、テレビ・新聞などのメディアも「一般的にウケル」ことを狙って形成されているのである。すなわち、新聞なら購買率の問題が、テレビなら視聴率の問題が常に切り離せない。多数者の意見を退けるものなら、こういったものは必ず下がってしまうであろう。しかしまた、多数者の意見ではなかったものを多数者の意見であると作り出す力があるのもメディアである。こういったメディアが作り出す多数者の意見、およびメディアが気にかける多数者の意見が民主制社会では重視される。
 民主制は、結局のところ「多数者の意見」を優先するのである。どうあろうと、その事実が覆ることはない。一般に政治家は、多数者の意見がどういうものかを絶えず気にしつつ、それに反対しない形で政治を取り仕切る(例外はある。例えば官僚制度の弊害に対する見方などである)。多数者の考え方が優先され、少数者の意見を封じ込める社会、これこそが現代の民主制である。
 しかし、これこそ「数の暴力」であり、少数者は取り残される。政治家は「衆愚政治」に走り、本当に必要なものを見据えない。民主主義はここに行き詰る。
 本当に必要なものとは何か、そういった話はまたいつか出来れば良いかと。当たり前の意見を日記で書いてしまいました。多数者の意見を善・正義とすることが気にかかったのですが、上手くまとめられませんでした。

この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

Comment

  1. 退会したユーザー より:

    信念・熟慮がある多数派はいいのです。しかし!(ここで日頃からたまっているルサンチマンを発揮します!)ある国では、しばしば信念・熟慮が伴わない意見がその国の首相をころころころころころころ変えるのです。信念・熟慮がある人々が多数派を占めるなら僕は納得します。
    国民は自分の利益だけ考えて主張するのはいいのです。しかし!そこに強い信念がないから多数派に流されるのです!
    僕は何も知ろうとせず意見せず主張せず考えようともせず、ただ傍観して不平不満を募らせるだけの弱者でありますから、こんなことを言う権利はないのですが!
    見苦しいコメントをすみません。

  2. たかはしさとし より:

    >信念・熟慮がある多数派はいいのです。
     理念的にはそうだと思いますが、実際は人は集団となれば熟慮は失う気がします。
     自分の利益だけ考えて主張をする、これが最大の欠点のように私は思えます。政治的発言の自由は当然保証されて然るべきものだと思いますが、露骨に自分の利益だけを追求するようなことは避けるべきであると私は思います。
    >僕は何も知ろうとせず意見せず主張せず考えようともせず、ただ傍観して不平不満を募らせるだけの弱者でありますから、こんなことを言う権利はないのですが!
     新聞に載ってあったことやテレビで言われてることをあたかも自分の意見のように振り回す人間より、空さんが仰ってるような人間のほうが信頼できます。
     我々は政治に参加することが善であり、選挙なんかに行かないことが悪だ、と決め付ける価値観があります。それが本当なのかどうかも考えずにその意見を鵜呑みにするのは止めたほうがいいです。それもメディアが作り出した価値観ですから。政治参加の権利を義務と主張するのは詭弁に思われます。

  3. 退会したユーザー より:

    「民意」はこうである(はずである)と政治家は語りますよね。「国民」は納得しない、とか。
    一体何を、誰を指してるんでしょうね。誰も指してないっぽいですよね。「国民」が単なる記号に過ぎないという感覚は、政治に対する無関心に直結します。
    てわけで、僕は政治に果てしなく興味がありません。
    あと、多数決が「数の暴力」なら、僕は「数のテロリスト」という形で暴力的といえますね。
    いつも少数決で決めるからです。

  4. たかはしさとし より:

    >サトシさん
     「民意」「国民」みたいな抽象物は、メディアが作り出したものであって実体がない、どこまでも抽象物なんだ、とキルケゴールなら言うでしょうね。具体性をすべて捨象して、何が残るのか、といわれれば何も中身がないものです。すなわち、政治家はメディアが作り出した中身のない概念に振り回されているある意味悲しい存在だと言えるのかも知れません。
     少数決で決めるから「数のテロリスト」とはなかなかおもしろい表現ですね。決を採るといった方法が政治に反映されるのが本当に正しいのかどうか、そこらへんは考えなければなりませんね。
     対立はどこにあっても必要であるとは思います。だからこそ多数決の原理で強引に押し付けるよりもっと有機的な方法で少数派の意見の良いところを汲み取ることが出来るシステムがあればなあ、と思いますけど、そんなものは思い浮かびません。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© ニーチェマニア! , 2010 All Rights Reserved.