ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」第��テーゼ1
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よく知られている話しだが、チェスの名手であるロボットが製作されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。それはトルコ風の衣装を着、水ぎせるを口にくわえた人形で、大きなテーブルのうえに置かれた盤を前にして、すわっていた。このテーブルはどこから見ても透明に見えたが、そう見えるのは、じつは鏡面反射のシステムによって生み出されるイリュージョンであって、そのテーブルのなかには、ひとりのせむしのこびとが隠れていたのである。このこびとがチェスの名手であって、紐で人形の手をあやつっていた。この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、その人目をはばからねばらならない神学を、それが使いこなしているときには。
(野村修訳「歴史哲学テーゼ」)
哲学やそこから生み出される理論は、チェスの人形のような自動装置のようなものである。その背後には操作主(ひとりのせむしのこびと)がいる。「歴史的唯物論」はどんな形においても、勝利を生み出す機械装置であるという。
ただし、「小さくてみにくい」神学を使いこなすときにおいてであるという。哲学は何らかの形で神学、「超越の言説」を持ってきた。プラトンにおけるイデア界であり、カントでいう英知界である。そうした超越の言説を捨て去ったのが科学やマルクス主義だと一般には言うが、ベンヤミンによるとそれは正しくないらしい。「歴史的唯物論」が勝利を収めるには神学=「超越の言説」が必要なのだ。
しかも、この神学は現在においては小さくてみにくいものである。いわば極小化され、一見誰からも見られないような存在に成り下がっている。それでも必要なのだ。
思えば、ニーチェは超越の言説を人間自身に、超人として定めている。キルケゴールはというと、これはキリスト教的神である。ハイデガーにおいてはそれは存在であった。こういう風に、超越の言説=神学は何らかの形で哲学と密接な関係を持っている。
しかし現代の哲学・科学はどうか。超越の言説をもっているといえようか。例えば、正義などがこの概念にあてはまるかもしれない。あるいは人間自身の精神の中にこれを求める、といえるかもしれない。
20世紀は、社会的には「超越の言説」を封じ込める流れにあったといっていいだろう。そして科学・哲学も超越の言説を封じ込めてきた。いや極小化してきた。そこに待つのは極小化されて消える神学か、極小化されても残り続ける神学、どちらだろうか。