人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

レーヴィット『ニーチェの哲学』(柴田治三郎訳) 二つの序文

 
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初版への序文
 彼の哲学もまた、ニヒリズムおよび等しいものの永遠の回帰の二重の「予言」として、二重の意味に解せられる。かれの無への意志は、「二重の意志」として永遠性の存在に帰ろうと欲したのだから、永遠回帰の教説は、意識的にかれの「運命」であった。 (4)
 本書に述べられる解釈は、ニーチェのアフォリズムをその特有の問題性の、隠された全体において、その哲学的な見取り図に従って把握しようとする一つの試みである。一つの相対的叙述の広範な豊かさをあきらめることは、そうした組織的に総括しようとする意図に対応するものである。(4,5)
 ニーチェ哲学における本来の問題は、…人間的実在が存在の全体においてどんな意味をもつか、ということである。(5)
新版への序文
 キルケゴールが宗教的な著作家であったようにニーチェは、前景と幅から言って、哲学的な著作家であるが、かれにはキルケゴールがもっていた概念的思惟の訓練がない。かれの師はヘーゲルではなくて、ショーペンハウアーであった。しかしニーチェは、やはり、深部と背景において、真に智慧を愛する者であり、そのような者として、常住するものすなわち永遠なるものを求め、そのためかれの時代ならびに総じて時間性を克服しようとした。かれにとって世界が「完全」となった時間の充実を、かれはある忘我の瞬間において体験し、それにかれは「正午にして永遠」という名を与えた。正午における永遠は、それがあたかも世界創造の前の神の無時間の永遠ででもあるかのように、時間を否定しはせず、世界時間そのものの永遠を意味する。すなわち、つねに等しい発生と消滅の永遠に回帰する循環であって、その中では「存在」の向上と「生成」の変化とが同一である。…それゆえニーチェの、等しいものの永遠の回帰の永遠性を目指す時間の時間性の克服という教説は、時間の単なる逃亡でもなければ、無常性の単なる賞讃でもない。この「新しい永遠」―新しいというのは、無地完成というふるい永遠に比べて言うにすぎない―の布告が、ニーチェのもっとも固有な教説となった。(8)
 それ(ニーチェの思惟を動かしている矛盾)は、そのような形式的な外観上の諸矛盾とはちがって、ひとつの本質的な、包括的な矛盾であり、―神および共通の創造秩序のない―人間と世界の関係における根本的葛藤から発するものである。認識する論述というよりはむしろ試みる実験というべきニーチェの熱情的な思惟の極端な緊張は、最初から最後まで、右のような葛藤の解決とその葛藤からの救済をめぐって旋回する。(10)
 レーヴィットがどのようにニーチェを解釈していたかを本書で見ていこうと思う。ニヒリズムと永遠回帰の二つの軸を中心として、人間実在の意味について探った哲学者ニーチェの哲学とはどういうものであったかについて、レーヴィットの視点が今とはどう違うか、考察しつつ進めていければとも思っているが、実際には難しいかもしれない。本書の初版は1935年であり、古いように見えるかもしれない。だが、ニーチェの受容の歴史としても考察する価値はあるんじゃないかなと勝手ながら思う。

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