人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『死にいたる病』3 1-A-C(1-1-C)

 
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C 絶望は「死にいたる病」である
 肉体的な死、それがここでいう死にいたる病の「死」のことではない。キリスト教的にいえば、死は「それ自身、生への移り行き」なのである。
 絶望の苦悩は、死ぬことができないことにある。絶望とは、「死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っている」ということなのだ。
 ここでいう「死」とは、精神としての自己、人格としての自己を失うことである。これこそが、人格にとっての真の「死」なのだ。そして、このことこそ絶望である。
 「絶望も、絶望の根底にある永遠なもの、自己を、食い尽くすことはできない」。絶望は、「無力な自己食尽」であるとキルケゴールは言う。というのも自己はまさしく永遠から、食い尽くせないのである。
 絶望の自乗の公式をキルケゴールは挙げる。それは、「絶望者は、自己自身が食い尽くすことができないことに、自己自身から抜け出すことができないことに、無になることが出来ないことに、絶望した、というより現に絶望している」状態である。
 「何事かについて絶望するのは、本来の絶望ではない。それは始まりである」とキルケゴールは断言する。「その次に、自己自身について絶望するというあからさまな絶望があらわれる。」
 「自己について絶望すること、絶望して自己自身から抜け出ようと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である。したがって、絶望して自己自身であろうと欲するという、絶望の第二の形態は、絶望して自己自身であろうと欲しない第一の形態に還元することができる」のである。
 死によって絶望から救われるのは不可能である。なぜなら、「この病とその苦悩は、――そして死は、死ぬことができないということ、そのことなのだからである。」
 キルケゴールはここでは、絶望が通常的な定義の死でないことを強調する。死ねないこと、あるいは死するという希望すらもてないこと、これが絶望なのである。当然、肉体的な死によってこの病は救われるはずもない。なぜなら自己は永遠だから。そして、その永遠性が、自己をもつこと、自己であることを要求するかぎり、永遠は自己から抜け出そうとする絶望・苦悩は単なる空想であるに違いないことを示しているのである。また、自己を措定した力から、自分の自己を引き離そうとしても、それは出来ない。自己を引き離そうとする力より、自己を措定する力(神の力)のほうが強いのであるから。そして、自己であろうと欲しない自己であることを、強いるのである。絶望して自己自身であろうと欲する自己はそうして、絶望して自己自身であろうと欲しない自己に転換される。しかし、人間は絶望を持つことができるという点で、動物よりも優れているのであった。それでは、どれほどの人間がこの絶望にかかっているのか、が次の主題になってくる。
 またまたあまりに絶望的。ここも抽象的でわかりづらいところである。あきらめず先に進もう。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    キリスト者には死んでも、その先に最後の審判を経て天国がありますからね。うらやましい・・・

  2. たかはしさとし より:

    確かにそうですね。
    しかし、天国という希望をもつことさえ絶たれている状態、それが絶望なのでした。

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