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石川文康『カント入門』 第五章メモ2

 
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●道徳法則への尊敬の念
 人間は何の動機もなしに行為へ赴くということはない。人をして真の道徳的行為へ赴かしめる動機とは何か?
 それは「道徳法則への尊敬の念」である。
 何故道徳法則は命法(命令文)なのか?
 「べし」の意識は何らかの抵抗あっての「べし」。その抵抗とは、人間の感性的存在様式にもとづくもの、欲望などである。「べし」は理性が感性に越境する仕方で、感性に影響を与えることによって生じる意識である。道徳法則は、理性から感性の方向において命法となる。
 命法としての法則を感性の側からみたら、なにが生じるだろうか。なんらかの感情である。それこそが「道徳法則への尊敬の念」に他ならない。無条件な命令は無条件な服従を迫る。そこには必然的にその命令に対する尊敬の念が見られる。尊敬の念とは「自愛の念を挫く感情」だからである。
 また、道徳法則への尊敬の念が基盤となって、道徳法則を具現化した人物を前にして、その人物に同じ尊敬の念を覚える。
 ルソー告白の際に手に入れた「人間への尊敬の念」が、「道徳法則への尊敬の念」へと成長していった。
●定言命法の定式
 カント倫理学は形式的倫理学―普遍妥当的な純然たる法則の樹立を目指すもの
 行為の主観的原理を格律という。道徳法則は、法則であるがゆえに、格律を客観化するものでなければならない。
 そのためにカントは、道徳法則を唯一の表現に定式化する。
 「汝の意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」
つまり、ある格律を万人に当てはめてみて矛盾が生じないかどうかを考え、矛盾が生じないような格律にしたがって行為せよ、ということ。
 定言命法もア・プリオリな総合判断である。そして、定言命法は命題自体としては、明らかに証明不可能な命題である。
●「天におのれを懸けるものもなく、地におのれを支えるものもない」
しかし同時に「それにもかかわらず、哲学は確固たる地位を確保しなければならない」。
 命法の命ずること以外に動機を求めるのは、結局は意志の他律を意味する。しかし一切の動機は経験的で仮象道徳をもたらすのみだったから、意志の他律はにせの道徳の根源にすぎない。逆に、真の道徳が可能だとすれば、それは意志の自律によるのである。自律とは自由の別名である。
 定言命法は、自由の理念がわれわれを英知界の成員にすることによって可能となる。その意味で、道徳法則と自由は互いに不可分の関係にある。
 「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」
・幸福について
 われわれにでき、また為すべき唯一のことは、幸福になることではなく、ただ道徳性の研鑽によって幸福に値する人間になることである。
 幸福は希望に属する問題であり、宗教に託される以外にないものである。
 カントが道徳性に託したのは、結局は良心の支配であった。
 良心の法廷モデル―不合理を回避するには、訴える我と訴えられる我を互いに別人格とし、人間の存在様式を二様に考察しなければならない。
 英知人=訴える我(原告)=裁判官の我/感性人=訴えられる我(被告)
 原告の訴え、および裁判官の判決こそが道徳法則にほかならない。

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