人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

レーヴィット『ニーチェの哲学』(柴田治三郎訳)第一章メモ

 
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 第一章 ニーチェの哲学―アフォリズムから成る一体系―
 《ニーチェの哲学は…アフォリズムから成る一つの体系である。…ニーチェの哲学の体系的性格は、かれが自分の哲学的実験を企図し持続し遂行する一定の仕方から来ているし、アフォリズム的正確は実験すること自体から来ている。かれが幾度か変化したことの単純な意味も、かれの思索がもつそのような原則的に実験的な正確から理解されなければならない。》p1
 ニーチェは《現代という時代を実験の時代と呼んだ》。カントが自らをコペルニクスと比したのに大して、ニーチェは自らをしばしばコロンブスと比した。p1
 《ニーチェの実験哲学は、試みに、原理的なニヒリズムの可能性を先取りする――それも、その逆たる、存在の永遠の循環に到達せんがために…かれの批判は従来のすべての価値の顛倒の「試み」であり、かれの会議は「向こう見ずな」男らしさのもつそれである》。p2
 《哲学的体系についてニーチェが打ち破ろうとするのは、…体系が独断的に固定された世界、「あれこれと制限をつけられた」世界をさもありそうに思わせるということである。体系の哲学者は、問題への勇気がないために、試みようとする検討と質問の打ち明けた地平を閉ざしてしまう。体系に対する批判に対応するのは、世界の新発見と打ち明けた質問の地平への哲学的な意志である。ニーチェの思惟の非体系的な形式は実証的に存在と真理に対するかれの新しい立場から生ずる》。p4
 《体系への意志「今日では」「誠実さの欠如」である。…「今日思想家が認識の一全体、一体系を掲示するとすれば、それは……一種の欺瞞である」》とまでいう。
 そうは言いつつも、《ニーチェの実験は、それが保つ方向によって、やはり体系的に導かれていた。体系的な試みだとは言っても、吟味を受けていない体系ではない。アフォリズムの中に示された際限のない地平への傾向は、おのずと概念の「本来の親近性」によって制限される》とレーヴィットは指摘する。p6
 《ニヒリズム克服のための真理に関するかれの最後の試みは、また西洋哲学の起源を思い出させる》。p6
 《ニーチェが最初出発した位置に再び立ったとき、やはり「実在に対する」究極の「最高の立場」を獲得しようとした。かれは永遠回帰を説く者として、『悲劇の誕生』の問題を再び回想する。そしてディオニュソス的存在の最高の在り方において、かれの試みの最後はそれの最初と体系的に結ばれる》p8-9
 《ニーチェの試みをかれ自身の尺度で測るならば、そのときには、かれは「詩人哲学者」ではなくて、もっとも古い哲学的言語の近代的改革者である》。p10
 《ニーチェのアフォリズム的な創作の統一性をニーチェ自身が指摘した。…この統一性を知っていてニーチェは自分の読者に自分のアフォリズムの解釈を要求した。じっさい、かれの野心は「他人が一冊の本で言えないことを、十の文章で言うこと」であった「私の本のようなアフォリズムの本は、短いアフォリズムとアフォリズムのあいだや、その背後に、禁ぜられた長い事柄や思想の連鎖だけが書かれている。」それらの長い事柄を拾い出すためには、何よりもまず、ゆっくりと文献学的に読むことが必要である》。
 レーヴィットによると、ニーチェの哲学はアフォリズムからなる一体系だと言う。賛否両論あるこの意見だが、体系といっても、ニーチェの体系は従来の体系よりもより柔軟性に富み弾力性がある体系なのではないだろうか。ニーチェは問題点の周りを何度もぐるぐるまわり、色んな視点からその問題を解釈する。そしてそれをアフォリズムによって表現する。そのアフォリズム自体が持つ意味、およびアフォリズム間の連関などを読むのにはニーチェ自身が言うとおり、ゆっくり読まねばならないだろう。そうしてゆっくり読んだときに、ニーチェが言おうとしてることには心の根底にある一貫したものがあるのではないか、と感じることがある。それがレーヴィットの言おうとしてる体系ではなかろうか。

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