人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

師プラトンの批判者で現実主義者・アリストテレス|高校倫理

2021/05/20
 
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どうもこんばんは、高橋聡です。今日も中途半端な天気でしたが、元気を出してがんばりましょう。最近ちゃんとあるかないといけないと、と思って在宅で仕事をこなす日もできる限り動くように努力しています。

今回はアリストテレスについて考えます。アリストテレスは、古代ギリシア哲学の完成者にして、現実主義者です。その前に前回のプラトンの記事について少し触れましょう。

前回の記事|古代ギリシアの理想主義者・プラトン

前回はプラトンについて見て行きました。代表的なイデア論と魂の三分説、理想国家論についてみていきました。次にリンクを貼っておきます。

プラトンについて知りたい方はぜひよんでみてくださいね。

それではプラトンの弟子、アリストテレスについてみていきましょう。

現実主義者アリストテレス

アリストテレスはマケドニアに生れました。父はマケドニア国王の侍医ニコマコスです。17歳のときにアテナイに行き、プラトンのアカデメイアに入学しました。そこで、政治学、自然学、論理学など様々な学問を修めました。

プラトンの死後、アカデメイアを去り、42歳のときにマケドニアに招かれてのちのアレクサンドロス大王の王子時代の家庭教師となります。その後、49歳のときにアテナイに再び戻り、アテナイの郊外にリュケイオンを建てました。アリストテレスは弟子たちとリュケイオン付近を散歩しながら講義をしたため、逍遥学派と呼ばれました。そんなアリストテレスの主著は『形而上学』『ニコマコス倫理学』です。

プラトンの批判者として

プラトンが理想主義者だったのに対して、弟子アリストテレスは現実を重視した現実主義者でした。

アリストテレスはプラトンのイデア論を批判しました。イデア論の矛盾を指摘しました。

形相と質料

アリストテレスは青銅像などは形がいくら異なっても同じ要素を持つに違いない、と考えました。青銅像は材料の青銅と、こういう像をつくりたいという製作者の構想が一体となって初めて成立するんだ、とアリストテレスは考えました。そして材料の青銅のことを質料(ヒュレー)、製作者の構想から作られた青銅像のことを形相(エイドス)と呼びました。さらに変化という側面から考えると、像は青銅という質料の可能性の一つであり、像の形相を得て現実の像となる、とアリストテレスは考えたのです。そして質料の可能性としての像のことを可能態と呼び、たいして形相としての現実の像のことを現実態とアリストテレスはよびました。

魂と肉体

存在するものは、魂をもつ生物と魂のない無生物にわけられる、とアリストテレスはいいます。魂は生物の形相であり、肉体はその質料なのです。生物は植物のように栄養を摂取する存在と、動物のように感覚を持ち移動可能な存在、人間のように理性的に思惟する存在がいるため、魂も栄養的機能、感覚的機能、理性的機能を持つとアリストテレスは考えました。人間はそのすべてを包摂しており、理性的機能において人間的になるのだ、アリストテレスはいいます。

知性的徳

人間の卓越性である徳は、魂の理性的機能を持つという点にあるとアリストテレスは指摘しました。そして理性とはものごとの本質、形相を認識する働きのことで、それが正しい認識をはたすときに知性的徳と呼ばれます。この知性的徳には知恵思慮があります。知恵は数学や自然学などの学問的真理にかかわる知性であり、思慮は行為の正しさにかかわる知性のことを指します。

性格的徳

思慮は行為の正しさにかかわる知性的徳です。この行為が正しいかどうかは、その状況によって異なります。行為の正しさの基準は、行為が極端に走ってないかという中庸に求めることができます。中庸を得た行為こそが、アリストテレスによれば正しい行為だというのです。

中庸を得た行為というのはその場限りのものではなく、日々の教育や修練の中で習慣化され、性格となって個人の徳となります。こうして中庸を徳とすることを、性格的徳と呼びます。

最高善と幸福

人間はなんらかの善さを求めて生きている存在だといっても間違いはありません。よい友人、よい本、よい映画、良いアニメ、良い仕事、よい人生、よい家庭、よい政治。ソクラテスもプラトンも人間にとっての善さ、つまり善を探求したのだといえます。ソクラテスは善を問答法によって人々に問いかけました。プラトンは善をイデア論として展開しました。そしてアリストテレスは善、善さはほかのもののための善いものと、それ自身として善いものとに分けて考えました。ほかのもののために善いとは、手段としての善です。たいしてそれ自身として善いものとは目的としての善で、それ以上の善はないから最高善と呼ばれます。したがって最高善こそが、人びとが求める幸福(エウダイモニア、ユーダイモニア)と同じだ、とアリストテレスは述べました。

人間の徳と幸福

人々が求める幸福は、人間の幸福である限り、人間としての卓越性である徳に即してはじめて最高の幸福となるのです。それでは徳とは何か。人間が魂の理性的機能をもつことが徳でした。ただ冷静に真理にのみ理性を向けることこそが最高の幸福だ、とアリストテレスは主張します。この理性によって真理を見続ける態度を観想と呼びます。すなわち人間にとって最高の幸福とは観想的生活である、ということになります。

友愛、正義、国家

国家は国民によって構成されます。人間が一人で生きることができない以上、共同体である国家を形成することは人間の本性に根差している行為です。この事実をさしてアリストテレスは「人間はポリス的動物である」と言いました。ただ人間の共同体は人間的な善さを求めて共同生活しているのです。だからこそ、国家形成の原理は国民が相互に善さを与え合うことにおかなければならない、とアリストテレスは主張しました。この相互的な愛情のことを友愛(フィリア)と呼びます。

そして国家形成の原理としてもう一つ大事なことがある、とアリストテレスは言いました。それが正義です。正義とは共同体の秩序維持の原理です。アリストテレスは、正義をポリスの法を遵守する全体的正義と、名誉や財貨、身の安全にかかわる部分的正義とにわけました。さらに部分的正義には働きや能力に応じて均衡が図られる公正を求める配分的正義と、貸借や犯罪のように相互の交渉によって利害の調整をはかる調整的正義に分かれます。

国家の運営をだれが行うか、権力組織の在り方を国制と呼びます。アリストテレスによれば、一人の支配者による国制である君主政、少数の支配者による国制である貴族政、多数の人びとによる国制である共和政の三つの国制があると考え、共和政こそ最も中庸を得た国制であり、一人一人の優れた点を持ち寄ってできるすぐれた国制だとアリストテレスは評価しました。

君主政、貴族政、共和政がそれぞれ腐敗すると、独裁政、寡頭政、衆愚政に陥るとアリストテレスは考えました。アテネの民主政はペロポネソス戦争以後、衆愚政に堕落していたのです。

以上、今回はアリストテレスについて書いてきました。最後まで読んでいただき、ありがとうござました。

高橋聡記す

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