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修行は世俗社会の生活の中でも行うことができる|『お経で読む仏教』第5章『維摩経』のミクロダイジェスト


どうもこんばんは、高橋聡です。気温も大分高くなってきて、暑い日もちらほら増えてきました。体調に気をつけて過ごさないといけませんね。

前回の記事

さて今回も前回の記事に引き続き、『お経で読む仏教』のミクロダイジェストをお届けしたいと思っております。前回は以下の記事です。

前回の記事をまだお読みでない方は是非読んでみてください。それでは第5章に入って参りましょう。

『維摩経』のメッセージ

『維摩経』において、最も大事なメッセージはなんでしょうか。それは仏教の修行は世俗から離れた場所でのみ行うのではなく、むしろ世俗の社会生活野中でも行うことができる、という大乗仏教の主張と重なるメッセージがあります。つまり修行僧だけじゃなくて、在家信者もまた悟ることができることを『維摩経』は説いています。

『維摩経』の概略

『維摩経』はの主人公は在家信者ヴィマラキールティ(維摩)です。維摩が病気になり、病の床に臥せているときにお見舞いに来た人々に仏教の教えを説きます。そこで釈尊(ブッダのこと)は弟子たちに向かって、だれか維摩のもとへお見舞いにいかないか、と聞きます。しかし誰も手を挙げず、最終的に文殊菩薩が引き受けます。

文殊菩薩と維摩との対話がされるとのことで、それを見たらすごいことが起こるだろうと期待をこめた弟子たちはこうして文殊菩薩と一緒に維摩の元を訪れます。

維摩は自分の病の正体は人々の苦しみだ、と言います。人々の苦しみが解放されない限り、私はやんでいるのだ、ということを言っているわけです。人々の苦しみを救うためにこの世に残っている存在のことを大乗仏教では菩薩といいましたが、維摩もまさしく菩薩なのです。言い換えるなら、維摩の病気は菩薩の慈悲から生まれたものだともいえるでしょう。

空の概念と実践|『維摩経』の教え1

『維摩経』では苦しみの根本原因は自己への執著だと考えられています。ではなぜ執着をするのでしょうか。
それは空を理解していないからだ、と維摩はいいます。空をわかっていないから迷いや執著から離れられないんだ、というのが『維摩経』の主張です。

初期仏教でも説かれた縁起説を発展させた考え方が「空」の概念です。物事は諸条件(縁)がととのったところで原因が結果を引き起こすというのがもともとの縁起説の考え方です。単に原因と結果でだけ考えるのではなくて、縁がよったところに因果関係が成立するというのが仏教の特徴的な教えです。

この縁起説は時代が下るにつれて、因縁と結果というのはそれぞれが相互依存的に結びついているんだ、と解釈されるようになってきました。因縁と結果が相互に関係していて、因縁と結果のどちらが欠けてもできごとは成り立たない、と考えられるようになっていきます。

空というのはこの出来事を正しく見るための智慧を身につけて判断する力のことです。空は八正道の最初の項目、正見というものと密接に関係してくる概念です。他にも空は四法印と呼ばれる仏教の共通の特徴を表すものとも密接にかかわってきます。四法印とは一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静をさします。

一切皆苦が四法印のスタートです。「すべてのものが皆、苦である」というのがこの四字の表すところで、苦諦の内容と一致します。苦とはインドの言葉の一つ、パーリ語でドゥッカといいます。ドゥッカとは自分の思いどおりにならないことから生じる苦しみのことです。インドの言葉の原義でいうと、「すべてのものは自分の思いどおりにならないんだ、だから苦しいんだ、と理解する」ことが苦諦であり、一切皆苦です。

空とは物事をありのままに見ることで、正見と関わるといいました。苦諦は仏教者が最初に身につけるべき正しい見方であり、苦諦を会得することが空の入り口である、ともいえます。

諸行無常は「すべての存在は変化して、常に同じものは存在しない」という意味です。空との関わりでいうと、物事をあるがままに見ていると、不変だと思っていたことが実は長期的に見ると変化していることに気づき、そして刻一刻と変化していることがわかる、ということです。

諸法無我は「すべての存在に永続性のある主体的な魂はない」ということを指しています。空とどう関わるでしょうか。物事を正しく見ると、生死を超えて人間をコントロールする不変的主体はない、ということが理解できるのです。インドのウパニシャッドで言われる梵我一如(アートマンとブラフマンの一致)はない、というのが釈尊がこの法印を説いたときに言いたかったことの一つです。

涅槃寂静は「解脱の境地であるニルヴァーナに至れば、すべてのものが静かで気持ちも平安を保つことができる」ということです。空は正しい見方のことですが、修行を通じて空をずっと維持できる人はやがて気持ちの平安に至るということです。

このように空は四法印とも関わります。

こうした正見や空といった徳目を仏教者は身につけようとして、世間を離れて修行しました。

維摩がここで問題とするのが、世間を離れた修行だけがこうした空を体得するのか、という点です。『維摩経』によれば、脱世俗的修行だけでなく、世俗の中での生活もまた修行となるといいます。結局人を助けるのが菩薩の努めだから、助けるべき人との関わり合いを絶ってしまっては元も子もないということも暗に言いたかったのかな、とも思います。

『維摩経』の教えとしてまず大事なのが空の実践の強調だ、と覚えておいてください。ちなみに般若経経典類でも空の実践がしきりに説かれています。大乗仏典でまず最初に大事にされた教えが空だ、とおさえておきましょう。

菩薩行|『維摩経』の教え2

『維摩経』では維摩が病気で臥せっているという描写がありました。なぜ病気なのかというと、衆生(生きとし生きるものすべて)が苦しんでいるからだ、と維摩は言いました。ここで衆生を悟りに導くのが菩薩です。ともすれば自分の救済だけを求めがちだった上座部の声聞や独覚を批判した内容が菩薩行です。

そしてこれは上記の教え、世俗生活の中でもまた修行できるという考え方とも関わります。苦しんでいる救うべき相手の声を聞かずに世俗を離れて修行していても苦しみがわかるはずがありません。

だから菩薩は苦しんでいる衆生の近くにいて、その声を聞き届けるのです。観世音菩薩などが苦しみの声を聞く菩薩だというのに代表されるように、菩薩の理想的なあり方を『維摩経』は指し示してくれます。

般若経経典類ではこの菩薩行の実践より空を説いている箇所が多いです。対して『維摩経』はどちらも同じ重きで説いているのが特徴となります。

無分別智|『維摩経』の教え3

無分別智もまた空と大いに関わりのある概念です。

仏教は「不二の法門」と呼ばれることがあります。これについて『維摩経』で問われたとき、問われた菩薩たちが二項対立で捉えている分別心こそが問題であり、その具体例を出して応答します。

そうした答えが出尽くした後、文殊菩薩は「不二の法門とは何でしょうか」と維摩に問います。

それに対して、維摩は黙して語らなかったのです。

そして文殊菩薩や他の菩薩たちは「なるほど、これが不二の法門か」と納得して経典は終わりを迎えます。

これはどういうことかというと、菩薩たちは具体例を出して二項対立で捉えている分別心から抜け出すことが不二の法門だと説きます。ところがそういうことを言葉で話している以上、言葉の性質上、必ず二項対立的に物事を捉えないといけなくなってしまいます。

維摩が黙して語らなかったことは、そうした言葉が二項対立を示す性質があることを理解して、そこから先の実践を示さないと完全なる不二の法門に至ることはないことを指し示したものです。だから菩薩たちは納得したのです。

これの不二の法門に至る智慧こそが無分別智と呼ばれるものです。分析的思考だけではなく、総合知で考える、といえばいいでしょうか。二項対立的議論から抜け出すには時には、「語らない」という選択肢も大いにありうることを示してくれます。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「語りえぬものには沈黙しなければならない」と言ったように、維摩もまた沈黙で語るというユニークな方法を使って相手に悟りとは何かを伝えたのでした。

補足しておくと、無分別智という智慧の形態があるからこそ、無記(語るべきでないことは語らない)という釈尊の議論的実践が生きてくるんだと思います。いらぬ事を語ると二項対立的議論で白黒つけないといけなくなるんだけど、世界はグレーであることが真実の領域もあることを指し示すために語らないという方法で真実を伝えるのです。

以上、今回は『維摩経』についての章をみてきました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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