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自分という枠組みをすてて常識を一度疑う『ミリンダ王の問い』|釈徹宗『お経で読む仏教』第4章『ミリンダ王の問い』のミクロダイジェスト




どうもこんばんは、高橋聡です。私がこの記事を執筆している日はちょうど軽い雨が降っていました。雨は大地の恵みなのですが、外に出かける気はなくなってしまいますね。今回も『お経で読む仏教』のミクロダイジェストをお送りします。

前回の記事

前回は『涅槃経』の部分について考えました。『涅槃経』とはブッダの臨終の旅の様子を記したものでしたね。まだお読みでない方は次のリンクから読んでみてくださいね。

それでは『ミリンダ王の問い』とはどういう本なのかを考えていきましょう。

『ミリンダ王の問い』の主題

『ミリンダ王の問い』はギリシア人の王メナンドロス(ミリンダ)とインドの仏教僧ナーガセーナとの対話が乗せられた記録となっています。

この本の大事なところを先に言ってしまうと次の通りになります。『ミリンダ王の問い』は何を教え、何を伝えようとするのでしょう。『ミリンダ王の問い』は、仏教の教えを再検討して、自分という枠組みをすてる道を示そうとしている、といえます。

つまり仏教の一見、初学者が躓く道を取り上げて、そこに納得できる答えを提示するのが『ミリンダ王の問い』だ、とも言えます。

『ミリンダ王の問い』の教え

無我説の説明・再検討|私という実体は存在しない

無我説は仏教の中心的な教義となります。『ミリンダ王の問い』は、この無我説をとてもわかりやすく説明しています。

ミリンダ王がナーガセーナに問います。

あなたがナーガセーナか

ナーガセーナは次のように答えます。

はい、そうです。ところが私は私という集合体であって、実体はありません

ミリンダ王に実体がないとはどういうことか問われたナーガセーナはこう答えます。

王が乗ってこられた車は、車輪だけで車なのではなく、車体だけが車なのではなく、鞭だけが車なのではありません。また車輪と車体と鞭を単純に合体させたものが車なのでもありません。車輪と車体と鞭が適切に組み合わさった集合体が車なのです

続けてこういいます。

同様に私も、私という集合体なのです。骨と内臓と脳と手と足と皮膚と感覚器官、それらの単体が私なのではありません。またそれらが合体したものが私なのでもありません。それらが適切に組み合わさった集合体が私なのです。それらに縁ってナーガセーナという私の名称が起こります。しかし、ナーガセーナという実体はないのです

ナーガセーナはとてもうまく無我説を説明しています。

すべてのものに実体がないという考え方は後の大乗仏教の「」という概念とも通じる考え方です。それを仏教の中心教義ともいえる縁起説で説明する巧みさをナーガセーナはもっていたのです。

智慧の獲得|自分のフィルターからの解放

仏教者には二つの要素が大事だと言われています。智慧慈悲がその二つとなります。

『ミリンダ王の問い』では、智慧は無知な自分というフィルターを通して物事を見ることから解放されるためのものです。ここでも大乗仏教の空観と似ている考え方が出てきます。

真の智慧は分別智ではなく、無分別智だと言われることがあります。これは二分法的な捉え方ではなく、全体を関係論的に捉えることが大事だ、というのが現代的な意味でしょう。

自分が無知だという自覚がなく、そのまま行動する人は智慧がない、とも仏教的には言えます。そして誤った行動を繰り返します。

だからこそ物事をあるがままに見るための智慧が必要となるのです。

出家の目的|出家は悟りに備えるためにある

『ミリンダ王の問い』は、ミリンダ王が出家をする必要がないことを指摘します。

それに対してナーガセーナは

悟りが必要なときが来て、はじめて修行しようとしてもできません。だから出家する必要があります

といって出家の必要性を強調しました。

他にも、ただブッダの教えが正しいから守るだけ、というのではなくて、自分の納得できる理由を説明できることが大事だと『ミリンダ王の問い』は教えてくれます。これはドグマの否定という初期仏教の特徴をよく受け継ぐものだと言えるでしょう。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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