人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

インド哲学を知ろう11〜古典サーンキヤ

2017/09/06
 
この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

どうも哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。前回はバガヴァッド・ギーターの哲学について見ていきました。今回はマハーバーラタでも多数登場する古典サーンキヤ派について説明していきたいと思います。早速見ていきましょう。

古典サーンキヤ

マハーバーラタのサーンキヤ

Hanuman 1097628 1920
マハーバーラタでも、これに続くプラーナ文献でも、サーンキヤ派は他の様々な要素と混じり合って登場します。マハーバーラタの編者とその一派であるサーンキヤは、最高霊の概念を排除しませんでした。むしろあらゆる存在の基となる唯一原理について考え続けました。この時代のサーンキヤを奉ずる人々は、経験上多数の霊魂が存在するが、すべて個々の霊魂が復帰できるような唯一の宇宙霊を基にすると考えました。このサーンキヤ説は当然無神論ではありません。しかし古典サーンキヤは間違いなく無神論なのです。唯一の最高原理、究極的唯一をなげうって古典サーンキヤは物質と霊魂だけから成る世界説明を打ちたてました

無神論的サーンキヤ説

西暦三世紀から四世紀にかけて、無神論的サーンキヤ説が樹立されました。古典サーンキヤは二元論を特徴とします。太古の昔から、実在として「根本原質」と「霊我」が存在します。根本原質はそのままでは見えませんが、普遍的実体で時間と空間とによって限定され、物質として現れます。経験上の事物は存在する限り大きさで限定されて、永遠的普遍性のあるものに依存しているからです。また大自然の調和から見て、唯一の物質的原因があると考えられたからです。

古典サーンキヤでは因果論が教義の大事な部分と関係しています。この因果論はサーンキヤ派が根本原質の実在を証明するために考えられたものです。サーンキヤ派は因中有果論を採用します。因中有果論はすでに質料因の中に、結果が存在しているという考え方です。そうしてサーンキヤ派は原因と結果の一致は明らかなものとされました。結果は基礎となった質料をその中に含んでいて、結果が結果として形をとって現れる前に、その質料として存在しているからです。あるものを形造る力のあるものだけが、あるものを形造ることができます。結果はその質料因と同じ性質を持ちます

サーンキヤ派の霊魂論

Water 2045469 1920
サーンキヤ派は物質の基礎を根本原質という一元に帰しながら、その霊魂観は多元論的でした。霊魂的原理は常に存在するとはいえ、霊我は互いに等しく、無限に数多い個々の霊我として存在するにすぎないと考えられています。根本原質に対立する単一原理としての霊我は抽象概念にすぎないのです。霊我が存在し、その数が多数であるという理由として、サーンキヤ派は次のように説明します。

物質の集合は、何か他のもののために存在しなければならない。世界展開の過程は解脱の実現のためであり、したがって解脱への努力は所与の事実であるから、我々は解脱に到達できるあるもの、根本原質と違った性質を持つ何かあるものの存在を認めざるを得ないのである。

さらにサーンキヤ派は「我知る」という意識下の作用に霊魂実在の証拠があると主張します。根本原質は純粋物質で活動性を持ちます。これに対して個々の霊我は純粋な霊魂で、活動性なく、物質の「享受者」です。また霊魂が多数あることは、個々の存在が多数あること、個々の存在が別々に生まれ、別々に死ぬこと、個々の存在はそれぞれ固有の生体を持ち、独自の行為をおこなうことなどから明らかだ、といいます。最後に、霊我は根本原質に対立していて、個々の霊我は基本的に同一であるといいます。サーンキヤ派の認識根拠直接知覚推論による間接知、第三位の聖典の権威です。

個々の霊我は無限に大であり、すべての存在に含まれ、すべての存在に浸透していると考えました。また霊我は不変不動、非物質的で意欲がないため、対象を伴わない純粋な知的存在、知そのものであり、尽きることのない光明なのです。霊我こそ光明であり、霊我によって我々は根本原質が霊我以外のすべてであると知るとともに、我々の精神的世界ともなる物質の実在を知るのです。霊我と根本原質は異なるとはいえ、互いに作用しあいます。霊我は根本原質に対して、無意識裡に刺激を与えます。根本原質は個々の霊我に仕え、そのために活動を続けます。このように関係し合う時、物質は霊我を命我(ジーヴァ)、経験上の霊魂、現象世界での個に変貌させます

宇宙ができてすぐ、霊我の刺激によって根本原質内部の均等が失われ、根本原質は均一の状態から多の状態へ映ります。根本原質が、自身から一連の所産を展開させます。感覚的認知ができないほど微細なものから、粗大なものが展開します。根本原質は個々の霊我のために、自身から全宇宙を生起させ、この創造がすべての霊魂の独存のために働くのです。

三種のグナの理論

グナの理論は経験界について、物質的、心理的、論理的説明を与えようとするものです。この三種のグナは三つの成分として、根本原質とそれから展開したすべてのものを構成します。三種のグナは一つ一つが単独で現れません。グナは絶えず互いに結びついて、補填しあって、自然の実体を形造ります。

最初のグナはサットヴァ(純粋性、存在の本性と一致していること)で、光明であり、第二のグナはラジャス(激動性)といって激しい力であり、拡張の性質を持ちます。第三のグナはタマス(暗黒性)は暗黒、無知、暗愚の性質を持ちます。ラジャスの作用は活動、タマスの作用は抑止、サットヴァの作用は光明です。サーンキヤの教義によればこの宇宙に何ら新しいものはなくただ転変しているだけです。転変の際に、サットヴァは実現されるべきものの本性で、タマスはその実現を妨げる抑止力、ラジャスはその抑止力を無効にするものです。以上三種のグナによって基本的な形態が展開します。サットヴァはひたすら霊我の自在独存、完成を求めます。霊我の完成とは、歓喜と平安、自制・幸福・欲望からの解放・純潔・法への信頼、超自然的能力についての知識とその能力の獲得という形で個々の霊我におのずと現れるとサーンキヤ派は考えました

ラジャスとタマスは解脱に障害となります。対して、解脱に導く智慧はサットヴァが与えるものとされました。人間精神の中にあるサットヴァの成分が、解脱智を求めます。ここに、人間にとって根本原質に基づく転変の機構、つまり輪廻を打破する機会が与えられるのです。

転変の最初に起こるのはブッディです。ブッディとは最高の精神的成因で、理性や決智作用の基礎です。個人はそれぞれ固有のブッディと固有の下位器官を持ちます。ブッディは霊魂のために活動します。霊魂の下僕の筆頭がブッディです。ブッディの中にあるサットヴァが法・知識・離欲・超自然力として現れ、ブッディを霊我の光明を受けるのにふさわしいものとします。ブッディとその下位器官は物質に属していますが、物質だけでは意識はありません。霊我によって初めて意識あるものとなります。霊我は自存です。

ブッディからアハンカーラ(我執)、主観形成と個人化の器官が展開します。経験上の霊我はアハンカーラによって固有の精神的背景を獲得します。アハンカーラが我の観念を作り出します。そしてアハンカーラによって霊我が作為者として登場して、現象界に関与するという妄想が生じます。我の概念の形成は、人間の思惟が高い目標に向かうのの邪魔となります。そしてアハンカーラからマナスが生じます。マナスはもろもろの器官の中枢です。マナスは感覚器官を活動させ、実在を知覚させることに加えて、願望や思慮などの作用も司ります。意志はアハンカーラとブッディに帰属します。マナスはブッディと諸器官の媒介も果たします。ブッディ、アハンカーラ、マナスの三つが内的器官と呼ばれます。

古典サーンキヤの解脱

霊我を輪廻に留めておくのは、霊我と物質の識別に対する圧倒的無知です。知識とは、霊我と物質とが根本的に異なっていることを洞察することで、これが解脱と考えられています

この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© ニーチェマニア! , 2017 All Rights Reserved.