威張っちゃイケナイ、なめられちゃイケナイ〜斎藤一人さんの言葉に詰まった意味の考察
どうも哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日は納税額日本一で有名な実業家、斎藤一人さんの人生論の著作に出てきた言葉について考えたいと思います。最近斎藤一人さんの本を読みだしたのですが、いろんな気づきがあったのでシェアします。固い哲学のお話ではないので、気楽に見ていきましょう。
威張っちゃイケナイ、ナメられちゃイケナイ
齋藤一人さんはある著作の中で「威張っちゃイケナイ、ナメられちゃイケナイ」と言っています。この言葉は生きる上で大事な要素が含まれています。簡単にいえば、威張(えば)っちゃイケナイの部分では感謝という要素が、ナメられちゃイケナイという部分では威厳の要素が含まれており、この二つが生きる上で大事だと言っているのです。ではまずは前半の文から考察してみましょう。
威張っちゃイケナイ〜人は他の存在のおかげですべてが成り立っていて、感謝を忘れてはいけない
この文は、自分が相手より優位に立っていたとしても、絶対に威張ってはいけないということを言っています。威張るということは、おごり高ぶった心や慢心から起こります。このおごり高ぶった心、慢心といったものは、周りの人からみても醜い人の態度にうつるでしょう。あなたが威張っている人を見るとどう思いますか?あまりよい気持ちにはならないでしょう。自分自身がこの威張った態度を取ってしまうと、周りの人は思い通りに喜んで動いてくれることはまずないでしょう。そうして、威張ることは成功への妨げの一つとなるのです。威張ることのマイナス面についてみてきて、ここから威張っちゃいけないことについて考えてきました。でも威張っちゃいけない最大の理由が、感謝を忘れているからです。感謝とは「ありがとう」という気持ちです。「ありがとう」とは、ありがたい、奇跡的だという意味が原義です。この世の出来事は想いを巡らせて見たらすべてが奇跡的なのです。例えばあなたが存在するまでには、両親がいて、その両親にも両親がいて、進化して人間が存在するようになることがあり、そこから遡ると生命が誕生していないといけないのです。生命が誕生するには地球という環境がなければいけませんし、その地球が誕生するにはとても大きな力が働いていたはずです。そして宇宙の誕生にまでこの奇跡は続くのです。この感謝、ありがとうという気持ちを忘れてしまう。そこからおごり高ぶった気持ちが生まれ、威張ってしまうんです。この奇跡的に存在しているぼくたちは、奇跡的な出会いや仲間との協業で成功することができるんです。ライバルもまた、とても大事な存在です。ライバルがいなければ、自分がそのライバルより上に立つように成長しようとしなかったかもしれません。威張っちゃいけないのは、奇跡的な自分という存在が、奇跡的に出会った仲間やライバルと関わり合ってたまたまその人より成長したりしただけであって、その関係に気づけば自然とおごり高ぶった気持ちなどなくなるからです。その意味でこの前半の文章は感謝を忘れるな、というメッセージなんです。
ナメられちゃイケナイ〜仲間を守るために威厳を持って接する必要がある
この後半の文章は例えどんな上位に見える相手に対しても、絶対に自分自身が見下されてはいけないということを指します。ナメられては、どんな無理な要求でもこいつはのむんだと思われ、何かとそういう要求をしてくる人が目の前に現れたりするんです。自分や自分の仲間を守るラインでは譲歩できないことがあることを見極めて、そのラインを常に頭に入れておく必要があります。そしてそのラインをまたいで無理な要求をしてきたら、どんな相手にでも毅然と反対することもまた必要なのです。威厳を持って相手と接するということも必要です。