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感情を乱す本当の原因は何か?アラン『幸福論』と仏教

 
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どうも、哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日はフランスの哲学者アランの『幸福論』の問いを仏教的に解きほぐしてみましょう。アレクサンドロス大王が誰も制御できなかった暴れ馬を手なずけたのは、暴れ馬が恐れているのが暴れ馬の影をみて反応しているからであることに気づいたからでした。このように、感情を乱す本当の原因を探る姿勢が大事だとアランは教えているわけです。ところで、仏教的に見れば感情が乱れるのは苦(ドゥッカ)なのです。この苦の根本原因は何か、というとそれは執着(しゅうぢゃく)が原因で起こると仏教では解きます。この執着の種類についても見ていきましょう。

参考になる記事は次の記事なので、是非見てみてください。

アランの『幸福論』の問い

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アランの『幸福論』

あなたはアランの『幸福論』をご存知ですか。ラッセル、ヒルティの『幸福論』と並んで、アランの『幸福論』は世界三大幸福論と呼ばれるくらい有名なものです。アランとはフランスの哲学者で、アンドレ・モロワやシモーヌ・ヴェイユという哲学者を育てました。アランの幸福論はとても含蓄が深く、考えさせられる内容になっているので是非あなたも手にとって読んでみてください。

本当の原因を見つける

暴れ馬ブケファラスがかのマケドニア帝国の若きアレクサンドロス大王に贈られたとき、誰も暴れ馬を制御することはできませんでした。アレクサンドロスは暴れ馬をじっくり観察します。何でそんなに暴れているのか、何に怯えているのかを観察したのです。その結果、アレクサンドロスは暴れ馬が自分自身の影の動きに怯えて、暴れていることに気づきました。そしてシャドークロスを作って制御できた、というお話です。この話から何が学べるかというと、アランは次のように言います。

この例が示すように、アリストテレスから直に学んでいたアレクサンドロスには、もうよくわかっていた。本当の原因がわからないかぎり、感情をコントロールすることができない、ということが。

『アランの幸福論』齋藤慎子訳、ディスカバー文庫版

暴れ馬の場合、自分自身の影に怯えて暴れていたのです。だからその対策をとれば感情をコントロールすることができました。ぼく自身の体験から言うと、ぼくが家に引きこもっていた時代、何かを表現したり、行動したりすることさえ億劫になってできなかったのです。この原因は、今にして思えば考えすぎの部分が多いのですが、何かをする際に誰かに見られていて、その人はぼくのことをよく思っていないだろうという考えでした。憂鬱になっていた原因は、くらいネガティブな考えが原因だったのです。この考えを改善するには、実際に行動してみて自分のことなど誰も気にしてはいないということに気づくのが一番なのです。

でよく考えて見ると、動物の場合はその場しのぎの対応・対策でなんとかなることもあるかもしれませんが、人間の感情を乱す原因のほとんどは、その人が考えていることに起因するのではないでしょうか。そのことについて深く考えてみましょう。

感情が乱れる原因の考察

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感情が乱れること(次のリスト)と、その原因をすべては挙げきれませんが、考察してみましょう。

  1. 怒ること
  2. 憎むこと
  3. 嫉妬
  4. 悲しみ
  5. 苦しみ

まず怒ることについて。人はなぜ怒るのでしょうか。理由は簡単です。他人や自分に高い期待をしていて、その期待通り動けなかった他人や自分がそこにいることで、怒りという感情が噴き出るのです。

憎むことについてはどうでしょう。嫌いだという感情もやはり怒りという感情と似ているところから出てきます。なぜあの通り動かないのか、自分にとって都合のいい方に動かず、むしろ逆のことをするのか。そうしてできた嫌いが重なると、憎むことにつながります。

嫉妬はどうでしょう。嫉妬はある人が持っていて、自分が持っていないときに起こる感情です。羨ましいという感情が羨望へと変わり、やがて嫉妬になるんです。あの人はとても美しい、でも自分はそうじゃない。なんであの人にだけ美しさがあるのかと思いつづけることで、嫉妬が生まれます。

悲しみについて。悲しみは人が同じ状態でいると仮定しているところで、その人が異なる状態に置かれたときに感じる感情です。健康だと思っていたのに、病気が発覚して悲しい。生きていると思っている人が突然なくなって悲しい。

そして苦しみについてはどうでしょうか。苦しみの根本原因は変化です。常に変化しつづけるからこそ、苦しいのです。

このように感情が乱れることの一部を見てきましたが、仏教ではこれらはすべて苦(ドゥッカ)であると考えます。

仏教が教える”苦”の真の原因

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仏教では苦しみの原因を”執着(しゅうぢゃく)”だと断定しています。執着とは、その物事にとらわれすぎることのことです。例えば生への執着。自分が生きていることが当たり前だとして、死を考えないという態度も無論取れるでしょう。ところが、何か病気にかかって死が避けられないことがわかると、人は苦しみます。生への執着が苦しみを生む典型例です。

ぼくの場合、欲しいパソコンがあり、それを手に入れたいけど手に入らないと思ってそのパソコンを持っている人を羨ましく思ったり、常にそのパソコンのことを考えたりしたことがあります。その状態はパソコンへの執着です。パソコンの場合は頑張れば手に入るかもしれませんが、それでも手に入らない状態でいるときは苦しいものです。さらに、そのパソコンを手に入れたとしても空しさが待っています。この空しさもまた”苦”なのです。

このように苦は生きていると人に常につきまといます。仏教ではさらにこの苦の原因である執着を二種類に分けて考えます。

二種類の執着

その二種類の執着とは、自分に関する執着ものに関する執着の二つです。

自分に関する執着とは、「これは自分である」という判断です。ものに関する執着とは「これは自分のものである」という判断です。この顔は自分である、だからこの顔が老いてシワを作れば苦しいとなるのです。ところがあなたのこの顔が赤の他人のものだったら、そこまで苦しくもなくただ事実としてそうあることを受け入れるのではないでしょうか。また、この土地は自分のものだ、と考えることがあります。いわゆる所有欲というものです。この土地が自分のものだと思うから、他人にその土地に入られて怒りがこみ上げるのです。ところが、土地とは本来人のものなのでしょうか。結局人間が自己都合で土地に人のものだといっているだけで、実際は境界もなければ違いもない土地なのです。だからその土地は誰のものでもないことがわかると、他人が入ってきても別に怒りも湧き上がらないのです。

執着を制御するには

仏教的にいえば、八正道を守ることが執着を制御することにつながると考えられています。ただしこの道は現代人が守り行うにはなかなか難しいのです。

だから、ぼくはあえて執着という概念を知っておいて、その執着にどっぷりはまって執着とはどういうものなのかを観察するのが一番執着から離れる道なのではないかと最近考えています。例えばものが欲しいという執着がわけば、ものを買いまくる。そうすると、結局残るものがない空しさだけが残り、執着の意味を実体験できます。執着を味わい尽くすと言いますか、その姿勢が結局凡夫にとっては最大の学びになるのかもしれません。

この記事のまとめ

アランの幸福論から始まって、仏教の苦や執着について考えていきました。本当の原因を考察すると、いろんな考え方が湧き出てきます。それをひとつずつ検証してみていくのもまた大事ですが、既存の考え方と照らし合わせてみるのもまた大事だというお話です。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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