人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

文化資本の概念2|経済学的な合理的人間モデルの拡張

2021/05/13
 
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どうもこんばんは、たかはしさとしです。今日は初詣にいってまいりました。近くの阿弥陀山松尾寺というお寺にいってきました。如意輪観音菩薩がご本尊のお寺で、詳しい創建年代こそ不明ですが、役行者が修行した伝えられているくらい古い寺なので、創建も古い可能性があります。縁起書をみていると、天平時代ころの瓦が見つかっているので、奈良時代には建物があったのは間違いなさそうです。


前回の記事

前回は文化資本の概念ということで、ブルデューの文化資本について少し考えました。文化資本とは利得を得るために使える資本とも言い換えることができます。



まだ読んでいない方はぜひ読んでみてくださいね。


3種類の形態の文化資本

前回の話を敷衍して、もうすこし詳しくみていきましょうか。ブルデューの文化資本は経済資本と対をなす概念だといいましたが、文化資本は主に三つの形態に分類できるといいます。

①客体化された形態

文化資本のうち、客体化された形態のものは、絵画や楽器、本や骨董品など、物質的にこの世に存在する形態の文化資本です。

②制度化された形態

文化資本のうち、制度化された形態のものは、学歴や教育資格、免状などの制度が保証した形態の文化資本のことです。

③身体化された形態

文化資本のうち、身体化された形態とは、ブルデューの用語でいうハビトゥスということばでさされるものです。具体的には慣習的行動を引き起こす好みなどの性向、言葉遣いやマナー、センス、美的な好みなどのことをさします。


COVID-19におけるマスク着用/非着用の文化資本性について

name="ul27A">さてここで具体例を考えましょう。前回も触れましたが、資本は経済資本と文化資本という二つの資本があり、この二つの資本は利得を獲得するために使われるのでした。正確に言えば、社会関係資本というもう一つの資本があります。こちらは簡単にいえば人脈のことをさします。ですが人脈はただ人脈として保っておくだけではなく、最終的に経済資本か文化資本に変換されるので、この社会関係資本については詳しく考えなくてもよいでしょう。

さて去年はCOVID-19が流行しました。話がややこしくなるので日本国内に話を限定しましょう。コロナウイルスにかからないために、マスク着用や手洗い、うがい、消毒などが励行されました。もちろん正確に言えば、今もされています。

実はこうした行為は、経済資本という側面ももちろんあります。コロナウイルスにかかってしまう人が出れば、会社にしろ、個人事業主にしろ、自治体にしろ、業務が滞ったり、各所の消毒や感染者の身近にいた人のPCR検査など莫大な手間(=経済的損失)とお金がかかります。そうしたことを少しでも避けるために感染リスクを減らす行動は至極経済的にも合理性を帯びる行為でしょう。

ただしこの側面だけでみていると、なぜマスクを着用しなかったり、消毒が不要だという人がいたりするのかの説明ができません。マスクをしたり消毒をしっかりしようとする人を対策者、逆にしようとしない人のことを非対策者と呼び、非対策者が現れる理由を文化資本から説明してみましょう。


name="XfeGP">通常、学校や企業、地方の地域社会などに属している人は対策者となる傾向にあります。対策をすることが本当に効果的かどうかに関係なく、対策をしていないと周りに迷惑がかかると思われており、文化資本的にも対策者となることは利得があります。対策をすることはマナーなどの③の文化資本に該当しますからね。この文化資本を使って、学校界や企業界においてつけていないより優位に立てます。というか対策をしないことで低位におかれる危険性もあるから対策をする、といったほうが正しいかもしれません。どちらにせよ、対策をしたら得をする、対策をしなかったら損をするという関係がここでは成り立ちます。

逆に都会にいて、とくに人が集まるコミュニティに属していない人、例えば一定のフリーランスの人などは、周りの目を気にして対策者となる人も多くいますが、同じように周りの目を気にして非対策者となる人もまた一定数いるのも事実です。そういう非対策者はなぜ対策をしないのか。対策をしてもほとんど効果がないという情報源をもってきて説明したりする人もいます。対策をして効果がないなら対策をする意味がないから対策など不要だ、という論理ですね。こういうことで何が得なのか。文化資本的にいえば、そうした非対策者の界において、そうした発言をすることで人気を得るという利得を得ることができるということもあります。さらに非対策者というマイノリティにあえて入ることで、自由な行動を叫びたい人もいるかもしれません。そういう人からすれば、自分の気持ちを声高く叫ぶことができる利得があるのです。


まとめ

name="DjAyl">このように文化資本の概念からとらえてみると、意外と説明しづらいことが説明できたりするのです。社会学という領域において、経済学的な合理的人間という仮説を拡張したのが社会学的な合理的人間モデルです。経済資本だけではなく、文化資本という概念を導入すれば、あらかた合理的に生きているのだ、というのがブルデューの主張するところです。経済学的な合理的人間モデルだけで不十分だからモデルを拡張して説明できるようにしたのがブルデューの功績だと言えるでしょう。

対して人間は非合理な存在だという前提に立った学問が行動諸科学、特に行動心理学行動経済学です。合理的人間モデルはある一定の条件でしか機能しないから、その制約を外した時には合理的人間モデルでは説明できないんだ、というのが行動科学者の主張です。

ぼく自身としては、ブルデューの文化資本という概念もとても強力ですが、行動経済学の説明もまた説得的だと感じています。文化資本という概念で拡張された合理的人間モデルと行動科学の非合理的人間という考え方は一見矛盾するようですが、どちらも経済学的な人間モデルだけでは説明できないことを説明しようとして、うまくいっている節があるので、適用範囲の違いでしょうか。ぼくが勝手に判断を下すことはできませんが、どちらも相互補完的なものだと感じています。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

たかはしさとししるす



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