人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

仏の教えを識別するための4つの真理のしるし

2021/05/13
 
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どうもこんばんは、たかはしさとしです。昨日眠くて第五回noteもくもく会に書く記事を書けませんでしたので、遅れていますが今から書いております。一応50分程度で書く予定でございます。眠いと本当に筆も進まないし、効率も落ちるし、ミスも多くなるしで良いことはないですね。だから睡眠はしっかりととりましょうね。

noteもくもく会ではいつも初期仏教の教えについて書いてきました。今回もそのシリーズでお届けしますが、前回の記事を読んでいらっしゃらない方はぜひリンクを張っておくので読んでみてくださいね。



それでは本編に入ってまいりましょう。今日のテーマは「四法印」です。この四法印という考え方をすべて兼ね備えていたら、それはすなわち仏教なのです。


4つの真理のしるし

四法印とは、4つの真理のしるしという意味です。なんのしるしかというと、仏教のしるしだと考えておいてください。つまり、この4つの真理のしるし(四法印)がすべてそろっていると、その教えは仏教である、といえる仏教になくてはならない4つの命題なのです。

だから初期仏教であろうと、部派仏教であろうと、小乗仏教であろうと、大乗仏教であろうと、中国の三論宗や天台宗、真言宗や禅宗であろうと、日本の浄土宗や浄土真宗などの浄土教であろうと、日蓮宗であろうと、四法印をそなえているので、すべて仏教ってみなされるのです。

この命題を箇条書きにしてあげると次の通り。

・一切皆苦

・諸行無常

・諸法無我

・涅槃寂静

それでは一個ずつ見ていきましょう。


一切皆苦

name="TXFbr">意味:人生や世界のすべてのものが、自分の思うままにならない苦であること

解釈:苦とはドゥッカという概念で自分の思い通りにならないことという意味。



この記事に苦について考察しています。ここでも四法印の一切皆苦に触れていましたね。仏教でまず大事なことは、一切皆苦を認識して、それを前提として行動できるようになることなのです。この一切皆苦という現実から目を背けると、どう動いても不自由でおまけに苦しい気分になる、と仏教は教えるのです。

この一切皆苦って言葉の響きはいかにも悲観主義的なものです。この世はただむなしいというニヒリズムを説いたものに感じるかもしれません。でも仏教徒は一切皆苦がニヒリズムであることを明確に否定します。事実をただむなしいと感じているのではなく、事実をあるがままに見るためにまずこの世の根底に存在する苦というものを見つめよ、と言っているわけです。そして自分が何でもコントロールできるという慢心を捨てよ、というわけです。その証拠に四法印はすべて世界と私についての解釈でできています。


諸行無常

意味:すべてのものは常に変化し、とどまることがないこと

解釈:この言葉を聞くと、平家物語の序文を思い出す方も多いでしょう。


祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。(平家物語巻一)

祇園精舎というのは、釈尊がある国の王子から寄贈してもらった修行小屋のことです。その修行小屋で鐘の音がなりますが、その音はなんとも諸行無常の響きがあると言っています。


name="KQGSs">日本人はどうしても諸行無常と聞くと、はかないものだと考える癖があるんだと思います。それ自体は間違いではありません。若かったものが老いていく、生きているものが死ぬ、勢力の強いものが衰える、そういった時間の流れをマイナスで見てしまっている節があります。

でも本当の諸行無常とは、簡単に言うとこの世の法則です。そこには人がポジティブにとらえようが、ネガティブにとらえようが、そんなものは関係ない。すべてのものは変化するんだよ、っていうことを言っているわけです。だからこれも全く悲観的なものではありません。むしろ、真理を見よ、あるいは真理をみる勇気が君にはあるか、と言っているほうが近いです。

諸行無常は、ただこの世の中は移ろいゆくもので変化するのだから、自分も変化しないといけない部分が必ず出る、という点と、そして何より、仏の教えでさえこの世のものである限り変化する部分もあることを示唆しています。


諸法無我

意味:存在するすべてのものは永遠の実体ではないことすべてのものは私のものだと思ってはいけないこと

解釈:バラモン教のウパニシャッドの教えに梵我一如という考え方があります。梵とは世界の真理、我とは私を構成する永遠の実体、魂といったものです。梵と我が一体になったとき、輪廻から解脱することができるという教えが古代インドにはあったのです。

ところが仏教はこの梵と我という概念を退けます。とはいえ、実をいうと梵という考え方は法に、我という考え方は仏に発展したと捉えることもできなくありませんが、それはともかく、仏教では永遠の実体や魂を認めないのです。諸法無我の一義的な意味はこれです。


name="tAwHR">もう一つは、すべてのものに自我や私の所有物といったものもないという意味も含まれています。これはおそらく別の記事で取り上げることになりますが、仏教では縁起という考え方があります。縁起とは相互が関係しあって私やあなた、しいては世界が存在しているという考え方です。一瞬一瞬、違う縁起が働いて別の私がいる感じです。だから自我といった確固たる変わらない普遍の魂をイメージさせるデカルト的な自我などは存在しない、と仏教は指摘します。

諸法無我は古代インドの常識を破って本当はそんなものなどないっていうことを言いたい法印ですね。こういった教えからいえることは、ある時代に真理とされていることもやはり時代が変化すれば真理じゃなくってしまうこともあるよ、という教訓が引き出せるくらいでしょうか。日本人からすれば、これは諸行無常の亜種だと考えてよいでしょう。


涅槃寂静

意味:煩悩から離れた状態、つまり悟った状態は永遠の平安の境地である

この苦でできた世界は、変化し続けている。そして魂のようなものもない。とすると、ますます迷いに入りそうな気もします。わたしたち人間は苦しみ続けないといけないのか。

でもそういった悲観主義に陥ってはいけないと仏教では教えています。

自分がコントロールできないものばかりのこの世界だから、まずはコントロールできないことに目を奪われてはいけない。本当の自分だけはコントロールできるんだから、これを変えていこう

変化し続ける世界があるんだから、自分も世界の変化に合わせて変わっていこう

魂なんてよりどころになるところはないけど、だからこそ今を精一杯生き切ろう

そして、何事かにとらわれて考え続ける気持ちを捨てて、苦から抜け出そう。それが永遠の平安であり、そこからほんとうの人生はようやく始まる


name="twSkJ">そういったことが教えとしていえるかもしれません。

まとめ

四法印はあくまでも事実の羅列であって、それに苦しいとか悲しいとかマイナスイメージを付与する必要は一切ありません。悲観主義ではなく、現実主義、リアリズムに生きよう。そうしたら人生はむしろ楽しくなってくるよ、というお話でした。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ねむたくて起きることができなかった
たかはしさとし



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