ニーチェのソクラテス像についてⅡ
三 『人間的な、あまりに人間的なもの』におけるソクラテス像
『人間的な、あまりに人間的なもの』において、ソクラテス像の変化はニーチェ自身の思想的発展を問うことになる。
『人間的な、あまりに人間的なもの』においても『悲劇の誕生』におけるソクラテス像と同様のものがまったく見られない、というわけではない。そこでは、フォアゾクラーティカ(ソクラテス以前の哲学者)の哲学的発展を阻害し対立するソクラテスの像が見られる。しかしこうしたソクラテス像はこの著作において稀有であり、むしろソクラテスの生き生きとした姿が映し出される。
ニーチェは、「最も些細なことや最も日常的なこと」である「個々人の欲求、二十四時間の生活における個人的な大小の必要等々」を軽蔑したり取るに足りないとみなしたりすることを、「人間のために人間的なものを軽視する高慢さ」と語り、ソクラテスをそうした高慢さに全力を挙げて抵抗したものと位置づける。また、彼は「最も些細なことや最も日常的なこと」を「最も身近き事物」とよび、その重視を語るが、それはまさに、伝統的な形而上学や道徳、宗教の背後世界的思惟の軛を脱しようとしるニーチェの主張に他ならない。そしてわれわれはソクラテス像の変化に、ニーチェ思想の深化を見る。
「最も些細なことや最も日常的なこと」は、論理以前論理化以前の「最も身近き事物」以外以外のなにものではない、つまり生である。「最も身近き事物」の思想は、ギリシア悲劇という悲劇的形而上学において顕在化した「素朴な信頼感」「たんに本能から」の思想の、ここの人間の生きられた事実からなる事実的世界における新たな顕在化といえる。
「ソクラテスは、あまりにも私の近くに位置しているために、私はほとんどいつも彼と闘い続けている。」