人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

「同一性」という志向―教育

 
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 前に取り上げた「同一性」についてだが、これには教育が重要にかかわってくる。いわゆる愛国的教育というものだ。日本もそこまでいかないと思うかもしれないが、しかし同じ日本人であることを前提として、周りと「同じ」ことをしなければならない、という教育方針は変わってないように思われる。それには、同質性の幻想という前提がある。同質性の幻想とは、様々な多様性・異質なものが存在するのにもかかわらず、同化と既存の仕組みを受け入れることで、「同じ」状況にいると思わせることである。そしてその同質性の幻想の中にいるものの中に人だけが、共同性や一体感というものを感じる仕組みになっている。
 近年は均質的であるより、個性的であることを重視するというが、それでもアメリカなどと比較した際に、その傾向は低いと言わざるをえないであろう。こういった集団主義的傾向のすべてが悪いというわけではないが、その集団主義に適応することだけが正しいものではない、ということについて教育の現場で教える必要があるのではないかと思う。
 例えば、学校でも国歌などが無条件に流され、歌わされる場面があり、それが様々な問題となったりしたことがあった。国歌を強制的に歌わすというのは、愛国心を高める作用があるのも否定できないだろう。そういったことに対して子供たちも、そして教師たちにも自由があることを教えられる社会でなければならないのではないか。
 服装や髪型、アクセサリーの自由を学校と言う場にも適応させるべきだという人もいよう。私もその点については同意である。同じものを着て、同じ髪型で、と強制させられる教育現場は何か異様な風に移るのも事実であろう。すなわち、学校は同質性を求めることだけでなく、異質性を導入することで、価値観を反映させられる場であるべきだ。
 「同一性」という志向を、より次元の高い「同一性」=「愛」(―世界的政府に対するもの)に向けられるようにしなければいけない。そこでは個々人の自由が保証される反面、世界的な協調を示す必要がある。そういった全人類的志向を持つこと、これこそ教育に求められることではないか。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    僕の義務教育時代は自分の異質性に気付いておらず、同一性へのあこがれはありませんでした。それは、学校自体が同一性を有しているので自分が特異で同一性を獲得できる存在でなくても、同一性と共同性を感じることができたのです。
    とても安心できました。自分が存在しててもいいと思うことができたからです。
    でも大学という場から状況は変わりました。そこには同一性が見つかりませんでした。そのかわりに自分の異質性、それもきわめて異質な自分の性質に気付き始めました。そこに安心はなく自分の存在してもいい理由も見いだせず、そして同一性へのあこがれが芽生えました。
    義務教育時代に「異質」という概念がなかったから、自分がその異質なものだと気付いたとき、自分の異質性はもう手に負えない本質になっていました。
    そして、自分がどの集団になら属してもいいのか、自分がどの集団に属すことが可能なのかを見失いました。その集団とは、僕の場合、民族であり社会に様々に存在するコミュニティーです。つまり自分が存在しているこの世界との接点を見失いました。
    義務教育時代の同一性という幻想から目醒めたところには、他人と共同体を築けない特別な自分の異質性という現実が待っていました。そこに同一性を見いだし、愛し合い協調できる喜びは存在しません。
    あるのは、自分と異質なすべてのものに自分との同一性を見いだそうと不毛な努力をして、自分と同一なものがこの世界に必ずあると信じ込んで、ただこの世界のすべての異質なものを理解しようとしていないことに気付く、自分という存在だけです。

  2. たかはしさとし より:

     異質性を基礎付けることが出来ていない教育。それが社会に出てから自己疎外を結果的に招いている、とも言えるのかもしれません。社会の水平化による内面的な自己疎外(キルケゴール)にせよ、労働の搾取による外面的な自己疎外(マルクス)にせよ、自己を自己として認められないことは常に問題となります。
     キルケゴールの用語を借りると、今までの学校教育は人に「水平化」をもたらすものでしかありませんでした。他人との差異を認めず、数学的に均質化できるような人間を生み出そうとする、近代のものを引き継いだものに過ぎません。しかし、自己は他人とは違うことで成立します。それゆえ、同質性の幻想がそこにあるのです。
     今空さんが社会と接点をもてないと嘆いている異質性も、限りなく大切なものだと思います。異質性を強調する社会では、そういったことが必要です。確かに自分から歩み寄る協調性も大事なことには違いありませんが、この世にはある点で「対立」を必要とします。そういった対立を提言できる立場、異質性が限りない可能性を持っているように、私には思えます。

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