人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『死にいたる病』1 1-A-A(1-1-A)

 
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第一編 死にいたる病とは絶望のことである
 A 絶望が死にいたる病であるということ
  A 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合[非本来的絶望]。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。
 ※ここでいう「欲する」とは、「決断して選ぶ」くらいの意味であると捉えたほうがいいらしい。
 ここは、本書で最も難解な箇所である。
 「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」
 このような文章で始まるが、何のことかあまりイメージしにくいだろう。
 下のサイトなんかを参照にするとわかりやすいかもしれない。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222580562
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard17.html
 脚注によると、「関係」や「関係する」というものは、「人間の全人格的な行動ないし態度」のことであって、だから「関係がそれ自身に関係する」ということは、「自己反省」「自己意識」であり、「内面的な行為」なのである。人間がふたつの関係項から成り立つ関係として、均衡を失する場合、様々な形の絶望の状態におちいるのであって、そこから「絶望」という現象の諸形態に分析がおこなわれる、という。
 「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との総合、要するにひとつの総合である。総合というのは、ふたつのものあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己でない。」
 なぜなら自己は関係そのものではないからである。関係がそれ自身に関係するものが自己なのである。
 「ふたつのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一(否定的統一)としての第三者である。」というのは、ふたつの関係項自体が第一義的である場合、両者の関係は外的でしかないからである。対して、「その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。」ふたつの関係項の肯定の上に主張される精神であるとともに、関係を措定したもの[神]との関係があらわれるという点で、積極的なのである。
 自己は、自分で自己自身を措定したか、神によって措定されるかどちらかでなければならない。そうして措定された自己は、自己は自己自身に関係する関係であるとともに、自己自身に関係することにおいて他者に関係するような関係である。このことから、「本来的な絶望はふたつの形式がありうることになる」のである。
 自己が自分で自己自身を措定した場合、自己自身であろうと欲しない、自己自身からのがれ出ようと欲する絶望しか問題にならない。そして、このことは「自己は自己自身によって均衡と平安に達しうるものでもなければ、またそのような状態にありうるものでもなく、自己自身と関係すると同時に、全関係を措定したものに関係することによってのみ、それが可能であることを表現するものである」という。絶望して、自己自身であろうと欲することは、「あらゆる絶望が結局はこの絶望に分解され還元されるのである。」
 また、自己自身の力だけで絶望を取り除こうと努力すればするほど、「ますます深い絶望のなかにもぐりこむばかり」である。
 「絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式は、こうである。自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに、透明に、根拠をおいている。」すなわち、神との全面的な信頼により成り立つ自己には絶望はないのである。
 ここで語られていることは、キルケゴールの人間論といって良いが、ひどく難解で簡単に進むことができない。私自身いまいち不明である。何読もして少しずつわかるようになってくる、と信じている箇所なので、ここがわからずとも置いておいて先に飛ばすのが良いと思う。あえていうなら、自己喪失が絶望であるということに留意しながら、ここは読むのが望ましい。
 ここで絶望として出てくる諸形態は後の1-Bで分析されているので、そこで確認すればよい。真の「自己」の無知からくる、人間の絶望状態を分析していくのが、第一編であり、絶望状態の意志的な継続状態を分析していくのが第二編である。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    その難解な部分に論理的な解釈を試みるとは、感心します。
    正しい解釈は無いと思います。実際、ある箇所で僕はあなたとは別の読み方をしましたし(誤読だとしても、僕自身が感動出来ればいいんです、哲学なんてものは・・・)
    もっとコメントしたいですが、家はネット環境が悪いんです。携帯ではこれだけ打つのが最大限に面倒くさいです。
    僕も習っていまいちど「死に至る病」を開いてみることにしますか・・・

  2. たかはしさとし より:

     ここでもキルケゴールの言葉を断片的に並べているだけな気がしまして。未熟な文章を読ませてしまって申し訳ないです。ただ死にいたる病は第一編はだんだん簡単になっていく気がします。なので、逆順に読んでもおもしろいかとも思ったけど、出来ませんでした。総論なしに各論を語るのも邪道だと思いましたし。ああ、難しい。

  3. りゅうじ より:

    哲学の入門書で「人間とは何か・・・」の文章を読んで、10年前に「死にいたる病」を読みました。哲学は素人ですが、この辺
    に感動し鳥肌が立って、何度も読み返したのを思い出します。
    たとえば「関係そのものではなくして、関係それ自身に関係すること」
    などは、当時の僕の国語力では到底思いつかないし表現できないことだったので衝撃的でした。

  4. たかはしさとし より:

    >りゅうじさん
     コメントありがとうございます。キルケゴール哲学の本当に大事な人間論、難しいですけど、彼の熱意が伝わってくる箇所ですよね。この言葉を初めて見て、私も感動しました。
     何度も何度も考えながらこの箇所を読んでいます。しかし、未だにわからないです(汗)。またわかった、と確信できるようになったときには日記に書こうと思います。

  5. りゅうじ より:

    はい
    とっても感動したので、僕の座右の銘の一つです。でも、僕の座右の銘は知らない人の方が多くて、全然理解されないのが、実状でした
    この文章に感動した人に会えて嬉しく思います
    また、読みに来ますのでよろしくです

  6. たかはしさとし より:

    >りゅうじさん
     こちらもこのふるい日記にコメント頂いて嬉しかったです。またよろしくです。

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