人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

『死にいたる病』13 1-C-B-a(1-3-B-a)

 
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a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠の自己というものを、もっていないということについての絶望的な無知
 この絶望的な無知、あるいは自分が絶望であることを知らない絶望は、無精神性そのものである。こういう人間は、「たいていの場合、感情的なもののほうが彼らの知性よりもはるかに優位を占めているのである」。「あまりに感性的にすぎて、あえて精神たろうとしたり、精神であることに堪えたりするだけの勇気をもたないところからくる」のだ。
 こういう人間は、感性の王国である「地下室」に住みたがる。
 
 「絶望している者が、自分の状態が絶望であることを知らないでいるとしても、それは問題ではない。それでもやはり彼は絶望しているのである」。そして「自分が絶望していることを知らないでいる絶望者は、真理と救済から、否定ひとつ分だけよけいに隔たっているにすぎない」。「無知は絶望の最も危険な形態たりうるのである」。
 「この形態の絶望は、世間でいちばん普通のものである」。美的段階にあっては、精神は規定できないのである。自然に生きる人間、異教徒とキリスト教界内のおける異教徒がこれにあたる。
 「なるほど異教徒には精神が欠けてはいるが、しかし、異教徒は精神の方向に向かっているけれども、キリスト教界内における異教徒は精神化から離脱する方向において、あるいは背教によって、精神を欠いている」。したがって「キリスト教界内の異教徒は最も厳密な意味で無精神性なのである」。
 キルケゴールは、一般の人々が絶望についての無知の状態にいることを指摘する。彼らは精神を持たないで、感性にしたがって生きるのみである。現代の人々についてもこれは当てはまるのではないか。自己=永遠的なものを失っているため、肉体的/感性的に生きるだけであって、精神とはなりえないのである。
 無精神性はキルケゴールの最も批判するところであるが、キルケゴールはこの箇所で、世間に対して警告を与えている。すなわち、キリスト教界内において自己を持たない人々、信仰を持たずに知識に振り回されている人々、体系を気付き上げようとする人々に、真のキリスト教を与えるための第一歩として本書は描かれている。続きは『キリスト教の修練』で述べられているが、キルケゴールが生きた同時代の人を告発するとともに、救い出そうとする試みの一つである。
 感性的な生活をおくるだけでなく、まず自己をもてというのがキルケゴールのメッセージであった。では次はどんなメッセージが待っているのか。

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Comment

  1. 退会したユーザー より:

    『死に至る病』の話題と少しずれるのですが、先日駅でバスを待っているとき、イエス・キリスト教会と明記された名札を胸につけたキリスト教信者に勧誘されました。そんなに僕ってそういった団体から勧誘しやすいような雰囲気をかもしだしているのか・・・と少し心を痛めました。ちなみにその二人組に、天国はあるかとか神はいるかとか質問されて小さな議論をしたのですが、もしだれかに聞かれていたら引くだろうなと思いました。だれかにこの話をしたくて話題がずれました(^_^;)すみませんm(_ _)m

  2. たかはしさとし より:

     キリスト者になるチャンス、とみるか、ルサンチマンの宗教に何ぞ入れるか、とみるか。色んな見方が成り立ちますね。
     まあ、勧誘されるということは、勧誘したくない人ではないというだけのことだと思います。明らかに勧誘したくない人には勧誘しないでしょうから、勧誘されるのは悪くないと思いましょう。

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