人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

ナザレのイエスの教え|高校倫理

2021/06/02
 
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どうもこんばんは、高橋聡です。気温が高くなるわ、急に湿気も上がるわで不快指数マックスの大阪ですが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか。特に何をやるでもなく汗がたらたらと流れてまいります。

友人の結婚式の準備もそろそろしつつも、つい動く気がなくなってしまう今日この頃ですね。旧友に会えるのもうれしいですね。そして東京にいった暁には、ぼくが所属しているオンラインサロンのメンバーの方数名とばらばらに合う予定です。関東メンバーの方とお会いするのははじめてなのでそれも楽しみであります。

今日はイエスの教えについて考えていきます。その前にイエスが考えたバックボーンにあった古代ユダヤ教を前回とりあげたので、そちらについて少し触れておきましょう。

前回の記事|ヤハウェを信じる一神教・古代ユダヤ教

古代イスラエルの歴史からユダヤ教の預言者まで、古代ユダヤ教の大事な要素を学んできました。次にリンクをおいておきます。

まだ読んでいない方、ユダヤ教についてあまり知らないという方は是非読んでみてくださいね。ではイエスの話題に入りましょう。

イエスの教え

イエスはローマ時代の地中海東岸地方のガリラヤの町ナザレにヨセフとマリアの間に生まれました。父の手助けをしながら成長したイエスは30歳のころ、ヨルダン川ほとりで神の国の到来をつげる預言者ヨハネから洗礼を受けました。メシアとしての自覚はこのときに生まれました。イエスの活動は新しい宗教をはじめるというよりも、神への真の信仰を人々の間に呼び戻すことでした。

バプティスマのヨハネ

ヨルダン川で人々に洗礼(バプティスマ)を施すヨハネという預言者がいました。ヨハネの名声のもとに多くの人々が洗礼を受けるために集まってきました。しかしそのきびしい教えと偽善者に対する非難のためにガリラヤ領主ヘロデの怒りを買って、処刑されました。イエスはこの洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、メシアとしての自覚をもったと考えられます。

イエスの説く神の国

ユダヤ教では、この世の終わりに神は裁きを行い、その後この地上に神が支配する王国が建設されるという終末感が説かれました。それに対して、イエスは神の国とは、目に見えるものではなくて、人々の心の中でつくられた信仰の国をさすと主張します。イエスが「時が満ちた、神の国は近づいた」というとき、それは悔い改めによって心の中に神の愛が満たされたときに生じる精神の王国のことをさしています。

律法の内面化

イエスはみずからを、神の国をうちたてるために使わされたメシアだと称しました。神の意志が記された律法は、救いと愛に満ちており、イエスはその律法の真の実現のためにやってきたといいます。

神の愛である救いと裁き

イスラエル人は神に救済を求めて、神はそれに応えて人間との間に契約を結びました。ユダヤ教の契約の本質は、律法の遵守にあり、律法が守る限り、神の救済は果てしないものだと考えられたました。ユダヤ教の神は裁きの神、義の神の性格もあわせもちます。

しかしイエスは人間の不完全で罪深い存在であることを強調し、律法を遵守しようとしてもできない存在であることを強調します。だからこそ、人間には救いが必要なのです。神は赦す神であり、また愛の神でもある、とイエスは考えました。

アガペー

信仰の原点は心の平安と救いです。儀式も律法ももとはこのためにあります。イエスは律法をこう捉え、神を救いと赦しを本質とする愛(アガペー)そのものと考えました。人間の不完全さや罪深さはユダヤ人だけのものではなく、全人類のものだとイエスは考え、神の愛は全人類に行き渡ることをイエスは説きました。その愛は無差別・平等の愛なのです。

福音

イエスは神は救いであり愛であると告げました。苦しむ者や悲しむ者にこそ神の救いはもたらされるというのです。人々にとって神の王国が自分の中にうちたてられるというのは、「よい知らせ(福音)」であり、罪人にとってこそ喜ばしいものなのです。

イエスのことばは当然福音ですが、イエスは神の子かつメシアなので、イエスの行為や人格そのものも福音だと考えられました。それゆえに福音書とは、イエスの言葉と行動のすべてを記した書なのです。

神の愛にこたえる人間の二つの愛

イエスは新しい宗教をうちたてようとしたわけではなく、ユダヤ教の再生を図った内部改革者だったのです。そのイエスが最も大事だと説いた人間の掟があります。

それが神への愛隣人への愛です。

神は愛そのものだというのがイエスの神理解でしたが、神の愛をわれわれは全力で受け取る必要があることを強調します。そのために、まずイエスはわれわれ人間も全身全霊で神を愛さなければならないことを説きました。これが神への愛です。

もう一つが神の愛の実践に関するものです。神の愛を自分自身のものにしなければならないわけですが、それには神が無条件、平等にわれわれ人間を愛してくださるように、われわれ自身も分け隔てなく隣人に愛を与えなければならない。これが隣人への愛、隣人愛です。

山上の垂訓

山上の垂訓によって、イエスは信仰の原点は神への絶対的な服従と愛の実践にあって、神の本質は愛と救いであることを表明しました。天国に一番近い者として、ユダヤ教の指導者層から見放されて迫害されていた人々を救済の第一の対象として扱いました。

以上これまで述べてきたことがイエスの生きたうえでの思想の中身です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
高橋聡記す

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