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唐の太宗の統治した時代の状況をみて、『貞観政要』の前提を知る|シリーズ100分de名著で読む『貞観政要』1

2021/10/10
 
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どうもこんばんは、高橋聡です。9月に入って暑さが落ち着き過ごし安い日々になってまいりました。そんな中、ぼくが最近はまっている本があります。中国唐代のことを記した書物『貞観政要』です。人によっては世界最高のリーダー論の古典だと言われるくらい大事な古典ですが、ごく最近まであまり注目されることがなかった書物なのです。『貞観政要』は唐の太宗・李世民と彼の臣下たちの言行録です。太宗の治めた時代は元号で貞観といわれ、中国史上もっとも平和かつ繁栄した時代、貞観の治と呼ばれる政治を太宗は行いました。中国の長い歴史で4回しか訪れなかった盛世と呼ばれる時代の一つに数えられるのが太宗の貞観年間なんですね。今回はこの『貞観政要」を読む際に前提となる太宗が名君になった理由、他臣下たちの紹介を行う記事にしたいと思います。

『貞観政要』誕生の背景

『貞観政要』は唐(618~907)の第二代皇帝である太宗・李世民の言行を記した書物です。その太宗が貞観の治と呼ばれる繁栄時代をつくり名君と呼ばれるほど立派になったのはなぜでしょうか。そこを簡単にみていきましょう。

唐の建国をしたのは、李世民の父李淵です。唐の前の国家は隋です。大運河の建設や二度の高句麗侵略に失敗して、民は疲弊して反乱が起こって、隋は建国から38年で滅亡します。

唐の建国時に功績があったのが、李淵の次男である李世民です。李世民はこのとき、20歳をすぎたばかりの若者でした。しかし、李淵に挙兵をすすめて、自ら軍隊を率いて、唐の建国に大いに貢献したのです。

李淵の長男、李建成はそんな李世民のことを快く思っていませんでした。そして四男李元吉とはかって、李世民の殺害を計画します。その動きを事前に察知していた李世民は先手をうち、臣下たちとともに、兄と弟を殺害しました。これが「玄武門の変と呼ばれる事件です。
李世民は兄弟を殺して、実力で定位を奪い取ったのです。この汚名を返上するためにはどうすればいいのか、彼は考えました。その答えは「優れた皇帝になり、平和な世を作り出すこと」です。正しい政治、部下の言うことをちゃんと聞き、人民のために行動する。そうした業績を残して認めてもらわないと、煬帝のように暗君として批判されることになると考えたのです。

そして李世民は自分が立派で正しい政治をする皇帝だと思われるためには、自分を律して良い政治をするしかなかったわけです。

李世民の部下たち

ここでは李世民の代表的な部下について紹介しましょう。

房玄齢と杜如晦

房玄齢は李世民が即位する前の秦王時代から仕えてきた側近です。玄武門の変にも参加し、のちの貞観の治の立役者の一人にもなりました。唐の成立時は人材の養成や推薦に努めて、唐の国家としての組織編成に尽力しました。杜如晦の才能を見抜いて太宗に推薦したのも房玄齢です。房玄齢は太宗の即位後、尚書左僕射という役職について貞観の治に貢献しました。太宗の命により、『隋書』などの編纂を総監督しました。また西晋、東晋、五胡十六国の正史である『晋書』の編纂にあたりました。

杜如晦は政治や軍事の面で唐に貢献しました。杜如晦も玄武門の変に参加しました。太宗の即位後、兵部尚書、尚書右僕射を務めました。貞観の治に貢献した二人の功臣である房玄齢と杜如晦の二人をあわせて「房杜」と呼ばれることがあります。

魏徴

対して、魏徴はもともと臣下ではなく、外様にあたります。李世民の兄の李建成に仕えていました。玄武門の変で李建成が殺された後、李世民に才能を見いだされて登用されたのです。李世民は自分に敵対したかどうかではなく、その人物の行動とその根本原理を見抜いて臣下を重用したのです。

魏徴は李建成に「あなたの弟である李世民は能力も野望も高い存在なので、早く殺してください。さもないとあなたが殺されるでしょう」と言い続けてきました。優柔不断な李建成は魏徴の進言を受け入れることができず、玄武門の変で殺されます。李建成の部下として犯罪人として捕らえられた魏徴は李世民に「あなたの兄がもっと賢かったら、わたしは罪人にならずにすんだものを」と言いました。これを聞いた李世民は、魏徴の実力を見抜き、側近として魏徴を登用することに決めます。自分の殺害を進言しつづけた魏徴でも、その優秀さと実力があれば積極的に用いることができる人間が李世民だったのです。

魏徴は登用されてすぐ諫議大夫に任命されました。魏徴自身は『隋書』や『群書治要』の編纂者としても活躍しました。諫議大夫は太宗に諫言を述べることを職務とした重要な役職です。魏徴は中国史上最も苛烈かつ優れた諫臣として知られ、のちに元のフビライ=ハンが魏徴のような人物を探し求めたというくらいです。そんな魏徴が歴史に名を遺すことになったのは『貞観政要』の預かるところも大きいでしょう。

諫言する職業を新設する意図

リーダーや組織のトップなど自分より上の立場の人に対してその人の過失を遠慮なく忠告することを諫言といい、魏徴はこの諫言を仕事とする諫議大夫という役職に就きました。太宗が謝った政策をしようとしたり、優れた皇帝としてやるべきことをやっていなかった場合、進んで諫言しました。

太宗は元々なかった諫議大夫という職業を新設しました。これは周りの人の率直な意見を聞いて、自分を律するために太宗がとった施策の一つでしょう。

そしてこの諫言してもらうという太宗の姿勢こそ、太宗と諫臣たちの対話を記した『貞観政要』を編纂するきっかけを歴史家呉競に影響を与えたのです。

『貞観政要』の特徴

上に書いたとおり、唐代の歴史家・呉競が『貞観政要』を編纂しました。『貞観政要』は全十巻四十編で構成されています。内容は李世民と臣下との対話、問答からなります。比喩表現も多く、これも本書の特徴のひとつといえます。

今回の記事のまとめ|『貞観政要』の前提

唐の太宗・李世民が名君と呼ばれるようになった理由は、若い頃の過ちにあります。太宗の過ちとは、自らの兄弟を殺して父を宮殿に幽閉したところにあり、この功績だけだと隋の煬帝とそんなに変わらないくらい暗君にされかねないのです。そこで太宗は玄武門の変以降、自分が歴史書で悪く書かれないようにするには、良い政治を行い続けるしかないと考えました。そして優秀な臣下を用いて、貞観の治と呼ばれる中国史上最も善い時代を治めることに成功します。その臣下と太宗との対話集が『貞観政要』であり、本書は諫言が最も大事な要素です。

以上、今回の記事は『貞観政要』の成り立ちや臣下などの紹介を行いました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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