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『慈雲尊者の仏法』第4回 心の性質ー貪りと怒りー 小金丸泰仙|書評


どうもこんばんは、高橋聡です。今回は『慈雲尊者の仏法』第4回のミクロダイジェストを紹介したいと思います。今まで3回紹介してきましたが、どれも仏教の大事なことが書かれていたので、今回もそうなります。

前回までの記事を紹介しておきます。

良かったら前回までの記事もぜひ見てください。では今回の記事に入っていきましょう。

この回の重要な問い

さて第4回の重要な問いはなんでしょうか。ぼくはこれには二つあると思い、当然答えも二つあります。

まず一つ目の問いは”何が煩悩を引き起こすのか”というものです。これに対する答えは、“心が目の前のものにだまされることで、煩悩は起きる”というのが第4回の部分の回答です。

二つ目の問いは”どうすれば煩悩を手放すことができるのか”という点です。これに対する答えはこうです。”世界を対象化することから離れて、心になりきることで、煩悩から離れることができる”。

煩悩の種類、意味

仏教では煩悩は二つの種類に分けることができます。倶生の惑と分別起の惑です。前者は生まれつき持っている人間の煩悩のことで、先天的煩悩といってもよいでしょう。こちらは全人類に共通の煩悩のため、こちらの煩悩に対処することは仏教では教えられておりません。後者の分別起の惑は、心が分別を行うことで生じる煩悩のことです。後天的煩悩ともいうことができるでしょう。仏教が大きく問題視するのは分別起の惑とよばれる煩悩のことなんですね。
ところで煩悩とは端的にいうとなんでしょう。それは自分の目の前のものにだまされることです。実際わたしたちは世界があり、感覚器官を通して心が世界を認識していると考えがちです。つまり世界そのままを感覚器官を通し、心に映し出されているというのが一般的見解です。しかし仏教では、心が世界を作り出すと考えます。この心が日々の習慣や癖などによってゆがんだ世界を作り出すとき、世界もまたゆがんで見えるわけです。だからこそ仏教では煩悩をなくすために心を整えようとするわけです。

出離の三障

心を整えて悟りに至るには、様々な障害があります。仏教において、それは出離の三障と呼ばれるものです。1に物への執着、2に身命を惜しんで努力しないこと、3に師の教えに従わないことがあげられています。
分別起の「分別」とは、世界を対象化して捉えたときにそのものの本質は消えてしまい、私の価値観を通した世界が映し出されるのです。また物と私を分離すること(分別)で、貪欲が生じます。すべての物と私が本来一体であると考えるなら、不足するものは何もありません。ところが分別して考えてしまうと、自分にないものはすべて対象化したものにあるわけですから、当然不足の不満が生まれます。認識と言葉は無反省に行うと自分の価値観が反映された世界になっていることに注意しましょう。

心にできないことと瞑想

心を用いて自分の心を知ることなどできません。目が自分の目自身を見ることができないのと同じ事です。そうして心を知るために行われるのが瞑想、座禅です。心の安穏の道は執著心を手放すことにあります。完璧を求めず、自分の分限を守るのにもまた瞑想は役立ちます。自分の怒りというものも、心の中で自分の怒りの対象を作り出して怒っているだけなんです。

無明と覚悟

無明とは自分の心が固定的で不変のものだと感じて、存在すると思いこんでしまうことです。この無明の対義語こそが仏教における悟りなんです。悟りはまた覚悟とも申します。心自体もまた空であることを悟り、変化することに恐れを持たないことができたら素晴らしいですよね。無明であることはスタートです。無明であることに気づいて少しでも悟りに近づく。仏教はいわばそのために手段を提供するにすぎません。無明はまた分別の言い換えでもあります。分別は対象化して物事を考えることでした。
ここで大事なことは、心で心を知ることはできないから、瞑想などで心になりきって感じることです。さらに空の無知が自分自身にだまされている状況を引き起こします。客観的事実が真実だという思いを手放したとき、悟りに近づいています。
それでは第4回の要約、ミクロダイジェストは以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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