人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

知に対する哲学の2つの態度

 
この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋 聡です。

今日は哲学において知に対する態度が

2つあることを紹介したいと思います。

その二つの態度とは、

知の無知」と「無知の知」です。

ソクラテスの「無知の知」という態度、

ヘーゲルの「知の無知」という態度を比べ、

現代にどう当てはまるかを考えます。

では早速見て行きましょう!

無知の知

ソクラテスの「無知の知」

あなたも無知の知という言葉、

おそらく聞いたことがあるでしょう。

NewImage
この言葉のもともとさす意味を考えましょう。

無知の知という言葉で思い浮かべるのは

ギリシャの哲学者、ソクラテスでしょう。

アテネのデルフォイの丘にある神殿で

「ソクラテスはギリシャで一番賢い」という神託を巫女が受けます。

神託とは、神様からのお告げのことです。

このお告げを友人から聞いたソクラテスは思い悩みます。

「わしは何も知らないと思っていたが、

はてさて一番賢いとはどういうことだろう?」

そう思い悩んだソクラテスは、

アテネの街で知者と呼ばれる人たちに

会いに行き、知恵とは何かを探りに行きます。

NewImage
知者と呼ばれる人とは、政治家や詩人、職人などです。

たとえば政治家に次のように聞きます。

ソクラテス「あなたがいつも語っている善とはなんのことじゃろ」

政治家「不正をなさないことだ」

ソクラテス「不正とはなんじゃろ」

政治家「正しいことをしないことだ」

ソクラテス「では正しいこととはなんじゃろ」

政治家「むむむ」

ソクラテスはここで思います。

「この政治家は普段、善とか正義について語っている。

だが実際善や正義が何であろうか尋ねても、

何も知らないではないか」

こういったやりとりをいろんな知者とやり、

ソクラテスは知者は何も知らないことをまず見抜いたのです。

ソクラテスはこれで確信します。

「知者たちは普段何事かを知っているかのように語っている。

だがその内実、何も知らないのだ。

私も何も知らないが、

何も知らないと無知を自覚している分、

知者と自覚しているものより賢いんだ

この話だけ聞くと、ただの嫌なおじさんソクラテスですが、

実際、この無知という前提はとても大事なのです。

つまり、無知という前提があるからこそ、

何事かその知を追い求めてやろうという気持ちが生まれるのです。

これを「真理への探究心」と呼びます。

無知からこそ、「真理への探究心」が生まれる。

だから無知の知は大事なんですね。

無知の知の大事さは現代でも変わらない

これはぼくらの生きている時代でもなんら変わりません。

というのは、

あることについて、これはもうすでに知っている、

という態度を示す人は、

その知っていること以上のことを得ようとしません。

対して、

あることについて、知っているけれども

何も知らないように接するべきだ

と自覚してあることに接する人は、

自分が知っていること以上のことを収穫しようとします。

無知の知の大事さがわかっていただけましたでしょうか?

知の無知とは、知の無自覚

では今度は知の無知について

考えましょう。

知の無知とは、

知に対して何も知らないことです。

そのままですが、

次の言葉で言い表すこともできます。

知の無知とは、

「知の一部がかけている状態」です。

かっこいい言葉でいうと、知の不在です。

また知はあるのだが、知が自分にないということは、

知の無自覚と言う風にいうこともできます。

無知の知が

何も知らないがゆえに、真理への情熱が生み出すことがあることを

お話ししました。

この知の無知では、

知の一部がかけているがゆえに、知を求める活動を行うのです。

この場合、無知の知と違うことは、

無知の知の場合、

何も知らない、ということを前提としないといけないのに対し、

この知の無知では、「すでに知っていることがたくさんあるよ。

でもそれって完全な知じゃないですよね」っていう態度で

知や真理を求めることです。

科学もこの態度に近いですね。

哲学における代表的な論者はヘーゲルです。

NewImage

ヘーゲル

弁証法を唱えたことで有名なヘーゲル。

弁証法とは次のことです。

Aという物事がある。対立するBという物事がある。

このAとBの矛盾を解決(止揚)して、Cという真実にたどり着く。

ABCにそれぞれ具体的な物事を入れて考えましょう。

(A)われわれ人間は空を飛べないため、

険しい山一つ超えられないという事実がある。

(B)鳥は空を飛べるため、

険しい山を簡単に超えるという事実がある。

この二つの矛盾を止揚するために、

われわれは考えるわけです。

昔なら、

(C1)山道を作ってなんとか険しい山を越えられるようにする

ことができますし、

今なら

(C2)トンネルを掘って山を超える道路を作る

ことも可能。

さらに、

(C3)鳥のように空を飛ぶヘリコプターに乗って山を超える

という選択肢も出てきます。

いろんな解決策がありますが、

まずは現実にできる方法だけを選び出して

矛盾を解決するわけです。

この方法が弁証法です。

ヘーゲルの弁証法のキモは

そこに人間の労働を意識していることです。

不可能なことを可能にする努力全般

それが労働です。

この弁証法と「知の無知」の関係はどうでしょうか。

弁証法の第一段階AとBとの矛盾は、

解決策Cという知恵の無知が原因です。

だから、AとBの矛盾を解決するために、

人間が努力、労働を行なって

Cという解決策を知るに至るわけです。

このヘーゲルに至っては、

歴史は「知の無知」が「知の知」へと至る過程

だと考えることができます。

そのため、世界史は弁証法によって人類の困難が解決してきた歴史だと

ヘーゲルは言うわけです。

現代では、知の無知が前提

今の世界では、知の無知が前提に

大学は研究を行なっています。

また教育も一様の知があり、

その知について何も知らない

子どもなどに行うものとして存在しています。

知の無知の解決、

つまり真理を発見し、無知の状態から知の状態へと脱出すること。

これが大事なことだとされます。

実際これは大事なことでしょう。

でもヘーゲルの議論では、

ソクラテスが無知の知を押し通して特別な生き方をしたような、

一個の個人がどう生きるかという側面はほとんどなくなってしまいます。

歴史に埋没してしまう個性

それがヘーゲルの哲学の難点なのです。

これに疑問を持ったのが

コペンハーゲンのソクラテスとも呼ばれる

キルケゴールです。

ではキルケゴールの知と無知についての考えを話しましょう。

キルケゴール

私にとっての真理こそが一番大事だと言ったキルケゴール。

実存主義の祖と言われるキルケゴールは知と無知について何を語ったでしょうか。

実はキルケゴールは知と無知の関係について直接語りはしません。

でも、とある種類の無知について語っています。

ひとつは不安についての無知、無垢であり、

もうひとつは絶望についての無知であり、

最後に両者と関係するものとして、

キリストに関する無知があります。

NewImage
まずは不安についての無知。

こどもの無垢は無知だというを

キルケゴールは『不安の概念』で指摘しています。

無垢ゆえに不安の感情がないわけではない。

むしろ、不安について何も知らない(無知=無垢)がゆえに、

不安に取り付かれている状態なのが、

この子どもの無垢です。

赤ん坊や子どもは無垢ゆえに泣きます。

不安という感情の存在を知らないため、

それに対処する方法を知らないのです。

だから不安という感情に直接出ます。

絶望についての無知はどうでしょう。

絶望していないと思い込んでいながら、実はその人は絶望している、

とキルケゴールは『死に至る病』で

指摘します。

この状態を絶望についての絶望的無知とキルケゴールは呼びます。

また不安と無知の関係と同じように、絶望と無知の関係は成り立つといいます。

つまり絶望を知らないがゆえに、

絶望に対する方法を知らないのです。

だから、絶望してないといいながら人は絶望しているわけです。

この両者は煎じ詰めると、キリストについての無知と言い得ます。

なにも伝記でイエス=キリストについて知っているとか知らないとか

そういう話ではありません。

あるいはキリスト教徒として育ったとか、

そういう段階ですらありません。

君はいつのときでも、

キリストの差し伸べた助けを体験し、

身を以て理解しているか。

キルケゴールが言うのはそういう宗教的体験なのです。

だから、文字面でキリストとは神の子だとか

そう言う知識を知っていても、

それは真の知識ではない、とキルケゴールはいうわけです。

単独者として

キリストに一対一の対話を常にする者。

そうならないと

キリストについての無知は解消できないのです。

これが正しい正しくないはともかく、

このキリストについての無知という概念は

何を意味するでしょうか。

○○についての無知の真意

たとえば、あなたが哲学をとても好きだとします。

あなたは哲学がどのように人の役に立つかを知っており、

実際自分の生活の役に立つことを実感しており、

哲学の面白さを体験してほしいから、

哲学の素晴らしさを普及しようとしています。

でもそれって哲学について知っていることになるでしょうか。

今あるものはなんでもその人は作れるにしても、

だからといって哲学についてすべてを知っていることにはならないはずです。

たとえばAI時代の倫理に則った哲学が将来出てきたとして、

そういったものが登場しないと今はわからないことになります。

すべてを知っているわけではない。

むしろ何も哲学について知らない人より、

知らないことがあるんじゃないの?と

キルケゴールは言います。

「キリストについての無知」というのも

実はキリスト教圏でキリストを誰よりも知っており、

その知識は揺るぎないものだと考えていた

キリスト教の聖職者に対してあてられたメッセージなのです。

つまり、こういうことです。

あなたはキリストについて誰よりも知っていると自負しているが、

実際はそう思っていることで何も知らない人よりも

知ってはいないのだ。

なぜなら知識や知恵だけで

神に到達することなど絶対ないからだ。

キルケゴールは煎じ詰めると、

○○についての知というが、

実際○○を知っていると自覚している人が

○○を本当に知っているとは限らないと言っています。

たとえ本当に知っていたとしても、

自分の存在となんらかの関わるものでないと意味はない。

そう断言するのです。

自分自身とその知との関わり合い次第で、

本当の知識や知恵となるのだと言うんです。

まとめ

ソクラテスは無知が出発点でした。

そして知を求めたのでした。

ヘーゲルの場合、無知を出発点とする理由なく、

ただある知を拡大すれば良いのだということでした。

でもこれは歴史の必然と言っていいかもしれません。

キルケゴールは信仰と知という観点から、

主に知識偏重をバカにします。

知識を積み重ねれば

絶対知に至り、神と同じ立場となる

などというヘーゲル哲学の主張は

断じて受け入れられないのがキルケゴールです。

ここでは三人の哲学者に登場してもらいましたが、

結局のところ、知の無知の改善というのが

今のところ優勢を占めています。

今まで見てきた

知に対する態度、立場をどう生かすか。

簡単です。

まず知らないことに関しては、

何も知らないと割り切った上で行動しましょう。

知っていることに関しても、

もっと知るべきことがあるのではないかと

疑いつつ、物事に接しましょう。

知ったかぶりは本当に成長しません。

本当に知れたと思っても、

行動が伴わなければ何も知ったことにはなりません。

その点に留意して行動しましょうね。

この記事を書いている人 - WRITER -
哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© ニーチェマニア! , 2017 All Rights Reserved.