人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

インド哲学を知ろう3〜最古のウパニシャッド・梵と我

2017/08/23
 
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どうも哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。前回はブラーフマナ文献の思想の特徴について触れました。今回は最古のウパニシャッド、特に梵と我についてのインド人の思索について考えて参りましょう。

ヴェーダ・ウパニシャッド

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ブリハド・アーランヤカ・ウパニシャッドやチャーンドーギャ・ウパニシャッドなどは、すべてのインド思想の基礎となり出発点となった最古の文献の一つです。こうした重要なウパニシャッド哲学を形成する書物群の名前は、古期ウパニシャッド、もしくはヴェーダ・ウパニシャッドと呼ばれるものです。ヴェーダ・ウパニシャッドはおおよそ紀元前六世紀から紀元前三世紀までの間に、ヴェーダの諸学派や、解脱するための智慧を求める人々の間で成立しました。

タブーとされ、村落社会を離れ、森林の中でのみ唱えることが許されたブラーフマナ文献の特殊部分をアーランヤカと呼びます。ウパニシャッドはしばしばこのアーランヤカに接続し、あるいはその一部をなしています。ウパニシャッドは特定の社会や知的エリートたちの思惟と議論の蓄積です。ブラーフマナに端を発した議論、たとえば我々の本体は何か、我々の本源は何か、といったような議論を祭式主義を超えて、ひたすら思索し続けた結果がウパニシャッドなのです。ウパニシャッドは人類永遠の課題を提出することでもありました。

ウパニシャッドでは対話という方式が取られることがあります。インド式の対話は権威ある全能の教師と問いただし、順序正しく真理を受け止める生徒との関係を指し、ギリシャ風の対話とはわけが違います。対話や討論会で重要とされるのは、深く知ることではなく、相手より多く知ることでした。ここでは論証不要な命題の真偽性について疑問を提出されることもありませんし、さらに演繹法による論証もほとんど行われません。類比や比喩、比較などの方法で皆が納得するのです。

最古のウパニシャッドは形成途中の哲学であり、インド式の高度な思惟、他の文明でも疑問視され検討されるような世界観、人生観を考え尽くしたものなのです。ヴェーダ・ウパニシャッドの思索は多様な現象世界がどうして存在するのか、その背後にあるものは何なのかを説明する基礎となるものです。それがいわゆる梵我一如の考え方です。他にもヴェーダ・ウパニシャッドの時代に「」や「輪廻」、「解脱」といった教義の基礎が築かれました。つまり、この時代にその後のインド人が精神生活で特に重視した概念を生まれたのでした。

梵と我の一致

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梵は世界の第一原理

梵は世界の第一原理であり、世界の基礎であり、自然界のあらゆるものを成り立たしめる要因であり、すべての人間生活の中に現れるものです。梵は現象界の背後にある唯一の実在であり、経験界に住む生きとし生けるものすべてを保つ力なのです。

梵は一切であり、実在であり、事物の本性でもあります。梵は普遍・唯一、永遠で定義できるものではありません。そして梵は梵自身から世界を放出します。絶対の観念梵に人々は到達したのです

アートマン・我の概念

「我」(アートマン)の概念について考える前に、我を先取った概念であるマナスについて考えましょう。マナスは、輪郭がはっきりしない幅広い内容の概念として現れますが、本性上微細な物質とされた意志・感覚・活動・思考力などを指すようになりました。マナスにより人間は疑問を生じ、恐れ、喜び、憎み、想起するのです。また、「心臓内に住むマナス」を失うことで人は死に至ります。マナスは人間にとって光明であり、マナスなしでは何事も自らなすことができません。マナスは人間を思い通りに動かします

アートマンという語、つまり我は最初、肉体的・精神的な意味での「自己」を指しました。我は本来人間に固有の元素として、特定の機能をもつ生命要素として登場したのです。人間の我をマナスや視力・聴力と同じく、人の人格中の滅びることのある要素とする説も唱えられました。その後、我は独自の機能を持たずに現れ、視力や聴覚などを超える完全なるものという位置付けになりました。

万物の中の知覚できない存在、感覚を超えた存在が万物の本性を形作っている。万物のアートマン・我とは知覚できない何か、感覚を超えた何かを指します。また我は不死の特性ももちますアートマンは見、聞き、理解します。しかし、自らは見られず、聞かれず、理解されません

梵我一如

そうしてアートマン・我は最高の実在と呼ばれるようになります。我はあらゆる存在の基礎、精髄、究極原理となりました。そうして我・アートマンと梵・ブラーフマナが同一視されるようになります。個別的存在の本体が大宇宙の本体たる究極原理に一致するという教義が生まれました

そしてある人々は自己自身の中に梵が存在すると考え、自己の中にある梵を探求しはじめました。賢者は精神統一して、自己のうちにアートマンをみるといわれました。そして自己のうちにアートマンを見る者は、自己自身の中に一切を見るのです。

初期のウパニシャッドまとめ

初期のウパ二シャッドでは梵が何かということを探求されるとともに、我の本性たるアートマンについての思索も広げられました。その結果、梵と我は一致するという見解に達することになり、以後これがインド哲学で重要な概念になっていきます。自分と世界は繋がっている。この認識を常に持ち、インド人は行動してきたのでした。

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