人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

インド哲学を知ろう7〜小乗仏教

2017/08/31
 
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どうも哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。前回は仏陀の教えについて見ていきました。様々な道徳的倫理的価値観も付随しましたが、解脱に最重要なのは瞑想、精神集中でしたね。今回は初期仏教の発達以降出てきた小乗仏教について見ていきましょう。

小乗仏教

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仏陀の教えについての解釈の多様性

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仏陀の説法は、最初何ら体系的な教説ではありませんでした。また同様に、特定の範囲の人々のためのものでもなかったのです。仏陀の教えとは神が不在の道徳とエクスタシーの神秘主義で、何よりもまず解脱の方法でした。仏陀は長い年月を通じて、生涯をかけて解脱の教えを説き続けたインド史上最初の人でした。とはいえ、仏陀の教えは後世仏陀の教えを奉ずる弟子たちに様々な解釈を許しました。

弟子たちの傾向と分裂

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仏陀の弟子たちや仏教の修行僧たちは、仏陀の言葉を記憶して、集成しましたが、特に仏陀の教えの正しさを論証しようとしました。さらに進んで、仏陀の教えについての洞察を深めようとしました。体系的論述を作り、解釈をより深めようとしました。弟子たちは教理問答や用語集成を編纂しようとしましたが、仏陀の教えについての見解の統一が取れませんでした。結局中心となる権威がなかったため、様々な学派が形成されました。大きく分けて、上座部大衆部の二つに分裂しました。

上座部ではパーリ語を用いて経典を編纂しました。『パーリ三蔵』が完成しました。三蔵には、直接仏陀の名前に帰せられる説法集である「経」「経」についての注釈書である「論」弟子たちが守るべきルールとは何かを書いた「律」が含まれます。こうして仏陀の教説、つまり経は、基本的に新しい材料を加えずに、伝統的教義学の体系に組み入れられることになります。

上座部と説一切有部の教説

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インドの西北部では、サンスクリット語を使用した経典も成立しました。説一切有部の経典がサンスクリット語を使用しました。説一切有部は一切は存在するという教説の信奉者たちという意味です。西暦紀元はじめの数世紀の間に仏教の主要な地位に立っていました。もともと仏教は、単一で恒常的に存在する物質あるいは根本原質の思想を拒否しました。仏教はもっぱら永遠の生成と永遠の離散、つまり輪廻とそこに存在する法則性、つまり法だけを認めます。仏陀の時代の思惟は、この法則性、秩序と秩序が現れるためにおこってくるすべての現象とを同一の呼び名、で言い表しました。

仏教の法は、ブラーフマナの説く見えない力と比べると、一段と倫理的な概念、哲学的概念が含まれます。法は生気あるものと同列ではありません。本性上、法は全て生命力がなく、無我なのです。現象の基礎であって、因果律の支配を受けます何一つ、誰一人として自律ではありません。種子があり、そして新芽が生じます。一個の法はその法に応じた法を生み出します。ただし他に依存しないただ一個の法があります。それが「涅槃」です。

法の数は不定です。完全な法の総数はわかりません。ですが上座部はこの法の群れを特定の立場から総括しました。一番有名なのが「五蘊」の説です。一定の人格的存在の基礎となる法のすべての説明に色受想行識の五つが使われます。色とは、形相、形態のことで、肉体や外界のあらゆる物質的成因、物質的現象を指します。受とは「感覚、感受」のことで、想とは「表象作用」のこと、心の中に起こった印象や心象、概念です。行とは「潜在的構成力」のことで、生を形作る力です。識とは「心霊的意識」のことで、対象も内容もない純粋の意識です。色受想行識はそれぞれ肉体、感覚、概念化、意欲、意志の区分を表しており、この順に初めのものが最も大きく、最後のものが最も小さいものだと考えられました。この5種類の蘊(集合)は互いに依存しあって、協同して働きます。人が、「自己」という観念を抱く時、一つあるいは一つ以上の集合なのであって、決して自己ではないのです

仏教の思想はこうして一層深まり、一段と精密になりました。これに伴い、法の理論についても次第に変化が生じるようになりました。聖典の中で実在がすべて法とみなされるようになって、人々は法の概念を分析し始めました。ここで教義論がもっとも力を注いだのが、救済の過程に何よりも重要な法を二次的なものから区別して、分離することでした。二次的なものとは、基となる法の効果あるいは法の誘因のことです。基となる法は一括され、これと同一の効果を伴う法も基本的な法とされました。渇愛とは、激情、激しい欲求などです。こうして法の数は激減しました。

認識論的立場からすれば、仏教徒はすべて観念論者であり、存在論的立場からすれば、仏教とはすべて実在論者です。仏教徒は、一連の要素の背後に実在が存在するのを認めます。説一切有部は法が永遠に実在する実在であり、瞬間的に方が作用して、その本性は経験の外にあることをなんとか示そうとしました。そのために法の一時的発現と法の超越的本性とを区別しました。このっけか、法は作用する時間と関係なく、すべて見えない実在性を持ちました。未来の法も我々の思惟の対象であるという見解までもが出ました。

法の理論の結果として、仏教徒は、諸行無常、つまり現象が移りゆき、止まることがないことを確信しました。五蘊の説は個別的存在を一個の統一体とする確信を揺るがしました。その結果、諸法無我の教理が生まれたのです。無我とは、不変の自己というものの本体は存在しないということです。そして無我の説は主観的経験である我に到達したのち、それを乗り越えて高い段階を順次上昇しながら、絶対の自己に突入しない瞑想の体験を基にしています。

説一切有部の信奉者たちは、霊魂の存在を信じませんでした。ただし、輪廻の中に「人格的存在の流れ」が連綿として続くことを信じました。だからこそ、無我の教理は人々を悦びに誘いました。諸法無我の確信によって、その人を苦悩させる何物も、何人もありえないからです。自己は存在しないという確信は、無常なものを避けること人々に教えます。諸法無我だからです。だからこそ、涅槃が重視され解脱が目標とされたのです。

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