さとやんです。前回に引き続き、今回も『選択集』の読み方をみて
今回は第二章の最初の引文に対しての法然の私釈をみていきます。
まず前回までのシリーズ記事の確認です。
①『選択本願念仏集』の読み方:概略
②『選択本願念仏集』の読み方:各章の意図
③『選択本願念仏集』の読み方:標題
④『選択本願念仏集』の読み方:第一章引文
⑤『選択本願念仏集』の読み方:第一章私釈
⑥『選択本願念仏集』の読み方:第二章引文1
リンクを貼っておきますので、こちらも読んでいなければ、確認していただければ、良いかなと思います。
それでは私釈にさっそく入っていきましょう。
『選択集』第二章私釈1
要旨
私、法然が考えるには、(前回の記事で取り上げた)引文には二つの意味がある。
一つは、往生の行の種類を明らかにして、もう一つはその明らかにされた二つの種類の行を行う良い点と悪い点を判別しているのだ。
はじめの往生の行の種類を明らかにするとは、善導大師の意図によると、正行と雑行の二つの行がある。
正行もまた二つに種類が分かれ、開(詳しく見る)と合(まとめてみる)の二つの種類に分かれる。
開には五つの行があり、この五つの行を合すれば、二つの種類の行に分類することができる。
開を見ると、読誦、観察、礼拝、称名、讃歎の五つの正行がある。
合を見ると、正業と助業に分けられる。正業とは、開の五種の正行のうち、称名のことで、別名を正定の業と呼ぶ。
助業には称名以外の正行がすべて含まれ、読誦、観察、礼拝、讃歎の4つの正行がそうである。
ではなぜ称名だけが正業と呼べるのだろう。
それは阿弥陀仏の本願に述べられているからである。
称名念仏こそが、阿弥陀仏の本願なのだ。
だからこそ、称名念仏を専念して行うものは、本願に乗じて必ず往生を得ることができる。
雑行にも五種の雑行があるが、いずれも正行に比べて往生のために役立ちはしないから、するには値しない。
二つの種類の行を行う良い点と悪い点を判別すると、正行と雑行には五つの良い点と悪い点のセットが現れれる。
親疎、近遠、有間無間、回向不回向、純雑の五つの対のペアが現れる。
一つ目の親疎は、心が近いか遠いかの違いである。
正行は阿弥陀仏の心が近く、雑行は阿弥陀仏の心が遠い。
近遠は物理的な距離の近さ、遠さだといえるだろう。
正行は阿弥陀仏との物理的な距離が近く、雑行は阿弥陀仏との距離が遠い。
有間無間は無間は間がなくずっと継続している様子、有間は間ができてしまいところどころ集中が切れる様子をさす。
ずっと阿弥陀仏が正行を行う者を見守ってくださっているのに対し、阿弥陀仏は雑行を行う者に対してはところどころでしか見守ってくださらない。
回向不回向の対とは、回向を自身が行う必要があるかないかの違いである。
正行を行う際は、阿弥陀仏がすでに回向してくださっているので、不回向でも浄土に往生できる。
雑行を行う際は、行を行う者が回向しなければ浄土に往生できない。
純雑とは、純は極楽の行、雑とは極楽の行ではないことをさす。
当然正行は純で、雑行は雑である。
だから往生の行には二行あるとはいえ、正行を行うべきなのだ。
コメント
正行と雑行の二つの行があることを指摘し、それをそれぞれ行うメリットとデメリットを明らかにここではしています。
正行にはさらに正定の業として念仏があり、これが三章以下の展開に大きな影響を与えてきます。
五つの対のペアのうち、回向不回向の対がわかりづらいのではないでしょうか。
回向とは、自分が善行をした功徳をほかの人に振り分けることをさします。
たとえばお経を読んだ。亡くなった先祖にそのお経を読んだという善行の功徳をふりかえる、というイメージがつくでしょうか。
正行にはこの回向が不必要だと言っているのです。すでに阿弥陀仏が仏となり、他の人を救うという誓い(本願)を立てたことが成就しているため、正行を行う人間が回向をしなくても、本人は往生できる、という論理です。
これには前提として、阿弥陀仏の浄土で、なくなった先祖と一緒に修行をし、みな仏になることができると考えていることがあります。そもそも浄土で会うことが確定しているため、自分自身がわざわざ回向する必要がないのです。
そしてこの点は、聖道門の仏教者からは常に突っ込まれてしまう点となってしまうのでした。
それはまたおいおい触れていくことにしましょう。
以上、今回はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございました。
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