人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

インド哲学を知ろう8〜大乗仏教

2017/09/02
 
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哲学エヴァンジェリスト。 東洋哲学や西洋哲学問わず、面白い哲学をあなたにお伝えします。
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どうも哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。前回は小乗仏教が個人の解脱を目指して様々な理論的体系を構築していった過程について見ていきました。今回は北伝仏教たる大乗仏教について見ていきます。個人の解脱から自分を含んだ周りの人の解脱をどうすれば良いのか。そういった思想が現れた背景と、大乗仏教がインド思想に与えた影響についても考察します。

大乗仏教

仏教思想発展の三つの時期

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まず仏教思想の発展の経過について、三つの時期に区別できます。第一の時期は仏陀登場から西暦初頭までで、個人の解脱を目標とした小乗仏教の時期。第二の時期に仏教はそれまでより一段と厳密に教義を作り、宗教的実践や教団運営上の様々な問題を制度化するなど、自派の教理大系を整備し、確立するようになりました。そして第三の時期には、西暦紀元四世紀ごろの人物である世親と無著が活躍した以降の時代です。

特に第二の時期に一段と厳密に定められた教義が特に重要な役割を果たしています。というのは、ここで確立された教義そのもの持つ哲学的意味とインド思想一般への貢献がとても大きいものだからです。

仏教の共通点

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様々な分裂があったとはいえ、小乗であれ、大乗であれ、すべての学派・教派が仏陀の教えを基礎とし、すべてがその解釈をもっていることです。その仏教哲学の共通点とは、次の四つの命題に要約されます。
  1. 一切は一刹那のみ現に存在する
  2. 一切は無常である
  3. 一切は自相のもの(単一・個・独一)である
  4. 一切は空である
アビダルマという語がついに理論哲学の意味を獲得し、アビダルマの発展とともに学派が互いに論争を交えながら、教義をめぐる見解の違いに応じて、一段と分裂していきました。

大乗仏教の特徴

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西暦紀元初頭に大乗仏教が登場します。インド北西部でカニシカ王の庇護を受けた大乗仏教は、小乗と呼ばれた仏教に取って代わろうとはせずに、新しい観念や実修法とともに登場しました。小乗仏教の聖典類をそのまま受け継いで、それらを補い、一段と深化させたと主張します。大乗仏教徒によれば、その教説と実修法も仏陀自身に帰せられるものなのです。

大乗仏教の信奉者たちは、インドの他の地域でも信じられていた、真理を明らかに示すことは繰り返し行われるもので、しかも後代の明らかに示された内容のほうが一段と高度な真理であるという考えに従いました深くて精緻な教えは昔は必要なかったが、今日必要になるや、仏陀によってひそやかな形で人々に明らかに示されたのだ、というわけです。

小乗仏教の理想は自己自身の解脱、阿羅漢果を得ることでした。それに対し、大乗仏教では仏陀の法に帰依し、帰依した人皆を救い、世の福祉を大きくすることを目標としました菩薩道を修めることが最も重要なことだと考えられました。菩薩道とは輪廻の中で繰り返される数多くの生涯で激しい努力をしたのちに、最後生の段階で仏陀になるにふさわしい状態に到達して、そこで獲得した超自然力を他のものの福祉のために役立てたいと願う道です。数多くの菩薩の名前が挙げられ、聖なるものとして崇拝されます。自己の解脱は自らが行うべきだとは考えられましたが、菩薩が進んで道を整えて人々は身の危険が生じたら菩薩に拠りたのみます。菩薩を崇拝するのは望ましいことですが、まずは自分が菩薩になろうと努めるべきだと考えられました。各人は菩薩への道を歩むことによって、仏陀となるべき功徳を積むのです。

個々の仏陀たちの真の本性は、智慧すなわち悟りだとインドでは考えられました。

仏の三身説も唱えられました。三身説によると、いかなる形態の宗教も教理も「法身」の具現で、それぞれ真理のある局面を示しています。絶対が名と形、すなわち現象の形態をとる時、法身は報身として現れます。声聞たちが地上のおいて仏陀なりと見るのが応身です。応神とは仏陀が万物のために福祉をもたらすために採った姿だともいえます。

六波羅蜜、六度の行も特に大事なものとして考えられました。波羅蜜の行こそ、人を菩薩たらしめるものです。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧が順に生じると考えられます。ここでいう智慧とは、全智であるばかりでなく、全世界への慈悲も含んでいます。

中観派の龍樹の思想

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小乗仏教は実証主義的不可知論といえます。対して大乗仏教は形而上学に強い関心を持ち、論理学や認識論の分野でも、思想構築を行なっています。

中観派、中道に従う者を名乗る人々は、徹底した相対主義を貫徹しました。ゴータマが世の快楽と苦行の中道を歩んだように、中観派も形而上学的な設問について、極端な肯定と極端な否定に偏らないよう努めたのです。

般若経典では、全智とは全宇宙を無と見る洞察にあります感覚器官が我々に与えるものは、一つとして実在ではなく、絶えず移り変わる無常な現象の印象にすぎない、と考えられました。菩薩はいずれの法も実在と認めず、五蘊を迷妄の所産と観じてそれによって完全な悟りに達すると言います。こうして空観が形成されます。空とは特定できず、測り得ざるもの、特徴付けられないものです。

こうした風潮の中に現れた中観派の龍樹はインドで最も偉大な思想家です。龍樹の思想は現実世界での諸法の実在性を肯定する立場と、諸法によって生じる現実世界の事実性を否定するという意味で法を否定する立場のいずれにも偏らない点で中観と呼ばれます。龍樹は忠実な仏教徒を自認し、自らを独創的と主張することはありませんでした。当時行われていた哲学的諸概念の内容の分析を行い、日常の意識と言語使用との間の矛盾を指摘しました。龍樹は懐疑論者であり、思惟が本性上有限であることを意識していました。龍樹は経験の所与を否定し、空間や時間などの概念を否定し、知識までも否定します。龍樹によれば、世の中で生起・存在・消滅と呼ばれる一切は、感覚の幻覚の所産であって、夢・幻・蜃気楼と同じものなのです。

諸法も一切は空、相互に依存して成り立つという洞察に照らして考えないといけません諸法に独立の実在性はないと龍樹はいいます。法、他の法への機能上の依存関係で現れ、また現れることができるだけだと龍樹は言います。その基本的特徴は相互依存関係であって、他に依存しない者だけが真に実在と呼ぶことができます。諸法は究極的実在でもありません。涅槃ですら事情は同じです。だから、涅槃を実在とみなすなら、我々はさまよい歩くものとなってしまいます。

龍樹は諸法を空とする立場から涅槃即輪廻の結論に達します。涅槃と輪廻は不二だと考えなければなりません。四聖諦も三宝もなんら独立の実在性を認めることはできません。因果関係も同様です。思索的精神の持ち主は、どこにも確固たる足場を見出すことはできません。龍樹は仏陀の弟子であると自称します。人間仏陀の解いた教えが絶対の真理ではないし、仏陀自身も完全な意味で真に実在とすることはできません。賢者は空観を正しいとする洞察に達し、絶対的真理の瞑想に専念しなければなりません。日常生活の実践では、現象界に対処するのに、ブッダの説く教えを使うべきだと龍樹は言いました。

龍樹は二重真理の説、真俗二諦説の創始者となりました。真俗二諦説とは、幻力の支配下にあるこの世界に対して、最も高次な立場では何ら実在性を与えないという理論です。空は形而上学的に絶対の実在であり、経験界で空なることとは、常に変化し、移りゆくことです。経験界は俗諦においてもっぱら実在たる現象であり、ここで絶対最高の真理は通常の人間の有限な思惟に具現するということが確信となりました。

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