人文科学系、主に哲学の専門用語の解説を中心とした雑記集

自我に囚われすぎることからの解放

2017/03/18
 
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こんばんは。
どうも、哲学エヴァンジェリスト高橋聡です。

昨日お話ししたドゥッカのお話。
今回はドゥッカの正体について
詳しくみていきましょう。

「ドゥッカとは五集合要素(五蘊)である」

「ドゥッカとは五集合要素である」
とブッダは言います。
五集合要素とは、
物質・感覚・識別・意志・意識の5つです。
ほんとうはこれら五集合要素が組み合わさって、
いろんなものが存在しているというのです。
とくにこの五集合要素は自我、私という
主体が存在しないことを
ブッダは強調しているのです。


思考の背後に思考者はなく、
あえていうならば思考そのものが思考者だ
という考えです。

どうしてそうなるのか。
存在とは五集合要素が結合されたものだから、
五集合要素の結合の状態を
存在と呼んでいるだけにすぎず、
つねに無常、
つまり固定化されたものは
なにも存在しないということです。
その背後には私や自我が存在するのではなく、
私というものは五集合要素の
一つの要素でしかないのです。

ぼくはこの解釈が正しいかどうかは
あえて保留しておこうと思います。

ぼくはこの五集合要素について今思うのは、
ひとつの仮説として考えると面白いな、ということです。

あなたはふつうあなた自身が存在していると思っている。
でもそれは違うんだ。
あくまでも、あなたは5つの要素(エレメント)が
結合した状態なのであって、
あなた自身が最小要素では断じてない。

その証拠に、10年前のあなたと今のあなたは
まったく同じ考えをしていないし、
細胞レベルで見れば常に生まれ変わっている。

だからこそ、自我は一応あるように見えても、
それに囚われすぎずに、ときにはもっと俯瞰的に
ものごとを考えよう。

近視眼的に木しか見なければ、
木があるとしか思えないじゃないですか。
だから、あなたはときには林や森を
見る必要もあるのです。
木ばかり見る視点じゃなく、
林や森がどうかをみる山に登って、
森の大きさを見ましょう。
そしてまた山から没落して、
ひとつひとつの木をどう扱うことができるか
考えましょう。

必要に応じて、
近視眼的見方と
俯瞰的展望を往復し続ける。
それが大事だということです。
それこそが中道の真意です。

そうして正しい見方ができ、
正しい発言ができ、正しい判断ができるようになります。
そして正しい行動が生まれます。

あなたはどうでしょうか。

人の行為にイライラして
怒ったりすることはありませんか。
自我に囚われすぎて、
まわりの人の気配りができなくなる。
だから怒る、そういうことはないですか。

他人に怒ってばかりだと、
それだけ逆恨みされるリスクが増えます。
因果応報とはそのことを指します。

ぼくは自我の大切さを否定しようとは思いません。
ブッダも自我そのものは五集合要素の一つの
形式だと言っているため、
自我そのものの捉え方は否定しているわけではありません。
でも、自我に問われすぎて自我人間になりすぎるのは
あかんと言っているように感じます。

そうしたことを自覚してはじめて、
利他行と利己行が一致する道が開けるのではないでしょうか。

だからこそ、
あなたは自我の殻を破って
周りを見なければなりません。
ぼくももちろんそうします。

仏教はやっぱり単なる悲観主義ではなく、
悲観的に世界を捉えはするものの、
本当にあなたにとって正しい行動は
あなたが探すしかない、能動的な考えですね!

自己を修養し、周りを見渡して
皆がほんとうの精神的自立ができるように
頑張ってまいりましょう。


 

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