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唯識思想を理解するための概要ー5つの重要ポイント

 
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どうも哲学エバンジェリスト高橋 聡です。今日は紀元後3世紀から4世紀に生まれ、その後大乗仏教の基礎思想となった唯識思想についてみていきたいと思います。参考にしている本は横山紘一著『唯識の思想』(講談社学術文庫版,2016)です。さっそくみていきましょう。

唯識思想の概要

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ここでの小見出し5つが唯識思想を理解するうえでの重要ポイントとなります。しっかりみていきましょう。

諸法無我

仏教の開祖ブッダの主張した内容の一つに、「無我」の考え方があります。無我とは、古代インドの流行思想ウパニシャッド哲学で打ち立てられた「梵我一如」の否定です。梵我一如とは、世界の根源的原理であるブラフマンと個々人の人格の普遍的実体であるアートマンが一致するという考え方です。この梵我一如への異議としてブッダは諸法無我ということを打ち立てました。諸法無我とは、簡単にいうと魂などの永遠に続く普遍的実体は存在しないということを言いたかったわけです。

これは現代人にとってはなかなか納得しづらいものでしょう。次のように考えるとどうでしょう。自分の手、自分の足、自分の体、自分の意識といったものを考えることはできます。ところが、この世界において、自分という言葉に対応するものはどこにあるか考えてみましょう。自分には意識があり、自分が私の実体だと漠然とぼくらは考えているわけですが、よく考えてみると自分に対応するものは何一つないことがわかります。このように「自分の〜」ということは言えるけれども、「自分」そのものはどこにあるのかは常に謎が残るものなのです。自分とは言葉の上ではあるものだが、実際はあるかないかわからないものであるといえます。考えを進めると、自分とは言葉の上では存在するが実際は存在しないから「仮我」(けが)であると言えます。

仏教では自分の体とか自分の手とかいう言い方さえ許しません。「ただあるのは体、手」だけであると言うのです。心も同じです。「ただあるのは心」だけで自分の心があるわけではないというのです。自分のものと誤認しているが、実際あるの「ただ体、手、心」だけなんです。こうした事実を唯識派は<五蘊を縁じて我・我所と執する>と言います。

唯識の意味

上記のように、自分はないことがわかりました。そうした探求を進めていくと、手も足も身体もただ構成要素がそういう形を成しているだけで、実質的に手や足も身体もない、という考えに行き着きます。結局、手や足や身体が存在するように見えるのは、心の中でそう認識されているからであると唯識派は考えました。唯識の「識」とは「心」のことですから、「ただ心だけしか存在しない」というのが、唯識派の主張です。ただしこの心しか存在しないと言っても、もっとヨーガを実践して心の深層を読み込んだ彼ら唯識派は、もっと踏み込んで「すべての現象は、すべて根本心である阿頼耶識から生じたもの、変化したものである」と主張したのです。これを<一切は唯識所変である>といいます。

唯識派はこう考えます。「心の外に存在するものはない。あるのは心の中の影像のみである」と。ものはすべて心の中にあるのです。これを<一切不離識、唯識無境>といいます。

唯識の歴史

唯識思想はインドで弥勒、無著、世親の三人によって提唱されました。それを中国に持ち帰ったのが最遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘です。玄奘の著作『成唯識論』によって唯識思想は完成しました。玄奘の弟子の慈恩大師が唯識思想に基づいた法相宗を立ち上げます。その法相宗は留学僧であった道昭によって日本に伝えられ、元興寺と興福寺で南都の仏教の中でも特に栄えました。

一人一宇宙

唯識思想の出発点は一人が一つの宇宙を成している、と認めることです。われわれは普通宇宙というとビッグバンに始まり拡張しつづけていると言われるユニバースを想像します。このような宇宙は科学的にそう考えられているかもしれませんが、皆が共有している抽象的宇宙なのです。そうではなく全く次元を異にしたもう一つの宇宙、具体的な宇宙があると唯識思想では考えます。自分だけが背負って生きていかないといかない宇宙というのが具体的な宇宙です。

この一人一宇宙という事実を<人人唯識>と呼びます。三人いれば三宇宙がある、と考えるわけです。この具体的な宇宙から抜け出る方法はありません。唯識思想は、自分にエゴ心があるから自分の中に閉じ込められるのだ、と考えます。

心の働き

すべてのものは心の中でつくられ、ものは心の中にある影像だと言いました。いわば影のようなものなのです。この心の中で作られる影像は、エゴ心を中心として、「感覚」「思い」「言葉」の三つが共同して働いて作られるのです。思いと最も関連する仏教用語が「煩悩」です。煩悩があなたの思いを固定化するものなのです。あなたが認識する世界は、心が織りなす複雑な世界です。

まとめ

今回は唯識思想の重要な概要についてみてきました。次回、唯識思想について書く際には「八つの識」や「自己やものへの執着」について考えていきます。自分というものは存在しません。その自分が存在しないことを認識したうえで、唯識思想では「ただ心のみがあり、根本心である阿頼耶識からすべての現象は生じる」と言うのでした。大乗仏教の第二期の思想である唯識思想は無著、世親などが唱導し、それを玄奘が中国に持ち帰ってさらに道昭が法相宗を日本に伝えました。仏教に基礎思想として奈良時代や平安時代は特に尊ばれました。ところで唯識思想は一人一宇宙であることを前提とします。あなたの宇宙と私の宇宙は違うものだと考えたらいいのです。この心という宇宙では、感覚、思い、言葉の三つが複雑に織り成してものの影像を作り出します。

ここで注意しておかなければならないのが、唯識思想は仏教の思想でもきわめて高度な哲学ではあるものの、実践を重視する思想だということです。具体的に理論だけを振りかざすのではなく、ヨーガによって平常心を保つ精神統一を重視したのは特筆すべきことです。このヨーガ上での発見が深層意識である阿頼耶識や末那識です。

宗教的要素、哲学的要素、科学的要素をどれも持った思想が唯識思想であって、このような思想は稀有なものです。ぼくもとても興味深いので、また記したいと思います。

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