さとやんです。最近私自身の体調は悪いですが、ここに『選択本願念仏集』(以下、『選択集』)の読み方を記事として書きます。
前回の記事は以下のリンクからどうぞ
では早速、本章のテーマである標題について語りたいと思います。
『選択本願念仏集』という標題
標題の発音
『選択集』は法然の主著でして、浄土宗の立宗宣言の本です。『選択集』は浄土宗の教相判釈の書ともいいます。
まず、内容に入る前に実際に『選択本願念仏集』という書物の発音の仕方について、少し触れておきたいと思います。
浄土宗では通常『選択本願念仏集』を「せんちゃくほんがんねんぶつしゅう」と発音します。略して『選択集』(「せんちゃくしゅう」)と発音されるわけです。
浄土真宗でも法然の『選択本願念仏集』は親鸞の師である法然の主著ですから、当然重要視されている聖典です。ただし発音は浄土宗とは少し違い、『選択本願念仏集』は「せんじゃくほんがんねんぶつしゅう」と読まれ、略した『選択本願念仏集』は「せんじゃくしゅう」と呼ばれます。
浄土宗と浄土真宗で読まれ方が違うことには少し注意しておきましょう。「せんちゃくしゅう」といっても、「せんじゃくしゅう」といってもどちらでも、同じ書物のことを指していますから。
「選択」の意味
『選択集』の選択の意味はなんでしょうか。
選択は、まず阿弥陀仏が念仏を称えることで、すべての衆生が浄土に往生できるように本願を立てたことをいいます。他の行ではなく、誰もが可能な一度でも阿弥陀仏の名を称える、という念仏を選択したことに大きな意味があるのです。その選択を釈尊が受け継ぎ、善導大師が発見し、それが法然に引き継がれたのです。
選択という言葉は非常に適切な言葉だなと私は思います。取捨選択というように、選択するには選んだもの以外のものを捨てるということが含まれています。だから、専修念仏(せんじゅねんぶつ)ということはこの過去の先人や仏が選んできたことを私も受け継ぎます、という宣言に近い意味を含意するのだと、私は感じます。他の修行法ではなく、ただ念仏のみ。これが選択に含まれる大きな意味です。
南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先
『選択集』の標題のあとに、”南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先”という言葉も掲げられています。
南無阿弥陀仏は「永遠の命を得て時間を超越し存在している仏さまに帰依いたします」という意味の念仏で称える言葉そのままです。
往生之業念仏為先は、「往生の業とは念仏の先(本)とす」という意味です。念仏の教えを理解し、念仏を称え、そして阿弥陀仏を信じるとき、往生は定まると言った意味です。原因と結果でいえば、念仏が往生の原因であり、念仏なく往生はありえないと言ったことを示しています。前後関係でみても、念仏をしていないと往生はないといったことを言っていると考えられるため、どちらも同じ意味です。
業はインドの言葉でkarma(カルマ)といい、もともとは人の行為をさす言葉です。これが意味が大きくなって、人がその当世において行ってきた行為をさすようになり、そのとってきた行為に対する報いも含むようになっていきました。カルマは人間の行為の可能性をすべて含んだ言葉でしょう。そこから手立てや方策のための行動といった意味でも使われるようになりました。だからこそ業(カルマ)は人が教えをどう理解して行動し、何を信じたか、人生の生き様をさす言葉だったのでしょう。
浄土宗の用語で安心(あんじん)起行(きぎょう)作業(さごう)という言葉があります。これは安心は阿弥陀仏の教え(念仏を称えれば往生できること)を知って心を安らかにすることでしょう。詳しく言うと、私自身は凡夫であり、聖道門(浄土宗以外の従来の仏教)の教えは何一つ実践できないし、悟ることのできない無力な存在だけれども、ただ念仏を称えれば極楽に往生して悟りを開けるという道が開かれて、それに喜ぶとともに安堵することです。そして起行は、教えで説かれている念仏の行を行うこと、つまり南無阿弥陀仏と称えることです。最後の作業は、教えを知って念仏を称えて、それを続けることで阿弥陀仏への信が醸成されてくる。この信が確固たるものとして確立したとき、往生は必ずなるという考え方です。
別の言い方をすれば、作業とは人生の行為を作るという意味です。これがこの業が念仏の業となったとき、往生することが確定するというのが「往生之業念仏為先」の真意ではないでしょうか。
今回はここまでとなります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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