『選択本願念仏集』の読み方:第一章引文

仏教

さとやんです。今回も『選択集』の読み方をみていきたいと思います。
まず前回までのシリーズ記事の確認です。

①『選択本願念仏集』の読み方:概略
②『選択本願念仏集』の読み方:各章の意図
③『選択本願念仏集』の読み方:標題

リンクを貼っておきますので、また見ていただければなと思います。

前回までは『選択集』の全体と特に関わるところを見ていきました。今回からは一章ずつ見ていきたいと思います。特に今回は引文の解説を行いたいと思います。

『選択集』第一章

この章のテーマ

第一章のタイトルは、

「道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」

です。この文章の通り、道綽禅師という人が、仏教を聖道門と浄土門という二つのあり方に分類して、聖道門を捨てて浄土門に帰属した、という意味です。
ここでこの章の特徴を言っておくと、『選択集』は全十六章ある中で最終章である十六章と今回見る一章は一番大事なことが含まれている章になります。
道綽は聖道門と浄土門の二つの仏教があると気づきました。
お釈迦様が亡くなってから時代が流れた末法の時代には、人は悟りの道を説いた聖道門を理解できないとされていました。
そのため、南無阿弥陀仏ととなえて、阿弥陀仏に帰依する浄土門に道綽は帰属したといいます。
一章は教相判釈を行い、末法の状況、浄土宗の信の内容の説明も行い、浄土宗の正当性を簡潔にいいあらわしています。
それでは次に本文の内容をざっくりみていきましょう。

一章の要旨

[引文]
道綽禅師の『安楽集』には、次のようにある。
生きとし生けるものはすべて仏性という仏になる可能性を有している。
それなのに、輪廻を繰り返してきて悟りを開くことをできないのはなぜか。
仏教の経典を見ると、それには二つの道があることがわかる。
聖道門と浄土門の二つだ。
聖道門の道は(道綽が生きた)末法という現在で悟りを得ることはできない。
お釈迦様がこの世を去ってとても長い時間が経っていることと、
今生きる人々が悟りの道が示されていても、それを理解する能力の乏しいことが理由だ。
聖道門では仏になれないのだから、浄土門で示された道を取るしかない。
阿弥陀仏が『無量寿経』で示された十八願にしたがって、
ただ一心に念仏を称えれば、往生することができる。
このことをよくよく考えなければならない。

(引文の説明)

まず一旦ここで説明を入れます。
引文とは、仏教の教えが書かれた経典や経典に対する注釈書から大事な文章を引っ張ってきている箇所のことです。その引文のあとに私釈といって、法然が解釈して話された法然自身の文章が続くこととなります。
ここで引文の解説を加えます。
道綽禅師は元々涅槃宗という宗派の祖師だと言われています。
涅槃宗は『涅槃経』という経典を典拠とした宗派で、『涅槃経』は特に人々はみな悟りを得られる性質を持つから、その性質を伸ばして悟りに至ろう考える宗派です。
道綽はそうした、ここで示されている引文でいう聖道門の教えをまずは実践しました。
道綽は長い間修行しましたが、成果を得ることはできませんでした。
そして道綽が50歳のときに時代は末法に入ってしまい、道綽は聖道門の道を続けることに疑問を感じたので、念仏を主とする浄土門に入ったのです。
仏教の開祖であるお釈迦様が亡くなってとても長い年月が経っていること、さらに悟りへ至る理論や修行法があっても、人々の理解力が劣っていて理解できないことが原因で聖道門では悟りが開けないと考えたのです。
ここでは特に道綽が自分の無力さを自覚している点がとても大事だと、私は感じます。
浄土門は念仏を称え続けていると、死後に極楽浄土に往生することができるという教えです。この点が見落とされがちなのですが、来世で極楽浄土に往生したあと、人々はその浄土で修行を積んで、正しく悟って仏になることができる、という考えも含まれているのです。
だからこそ浄土門に入るべきだ、よくよく考えなさい、と道綽は勧めているのです。

この引文でおさえておくべきなのは、
  • 聖道門と浄土門の二つの教えがあること
  • 聖道門の教えを実践するには自分たちはあまりにも無力だという自覚
  • 『無量寿経』に示された念仏を実践する浄土門こそが末法のわれわれが取るべき道であること
ということです。これは実に『選択集』の趣旨そのものを記していると言っても過言ではありません。
こうしたことを念頭に置きながら、第一章の引文を読むと良いでしょう。
個人的には道綽は聖道門の側に長い間いたという事実と、それに執着せずに正しい道を見極めたことがとてもすごいことだと私は感じています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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