個人的娯楽としての社会学
どうも哲学エヴァンジェリスト高橋 聡です。今日はピーター・L・バーガーの『社会学への招待』という書物を紐解いて見ていきましょう。第1章の個人的娯楽としての社会学から考えられることについて見ていきます。
イメージとしての社会学者
社会学者としてのイメージは様々ありますが、ここではどんなイメージがあるのか挙げていきましょう。
①ソーシャルワーカー、もしくはソーシャルワークに関する理論家
②社会改革者
③人間行動に関する統計資料の収集者
④科学的な方法論を発展させることのみに注力し、その科学的方法論を人間的現象に押し付けようとする人
⑤対象から距離を置いた観察者、冷酷な人間の操作者
上記あげたものが代表的なものとして存在しています。その社会学者としてのイメージですが、実際はどうなのかを考えていきましょう。
ソーシャルワーカー、もしくはソーシャルワークに関する理論家
このイメージはコミュニティのために役立つことや
「道徳的向上」というアメリカの古典的テーマの現代版として見られている
とバーガーは言います。
ところが実際のところソーシャルワークの理論の発展に関して言えば、その理論の枠組みを提供したのは社会学より心理学による影響の方がはるかに大きいのです。
とはいえ社会学とソーシャルワークは近いイメージはぬぐいきれないでしょう。最大の違いとはなんでしょうか。
バーガーによるとソーシャルワークとは「社会におけるひとつの実践」ですが、社会学とは「実践ではなく理解しようとする試み」です。結局のところ、ソーシャルワークとは日本語で社会奉仕と訳されるように、奉仕することそのものが重要なのですが、社会学とは行動そのものではなく、他者や社会に関する理解に最も重点を置く、という点で違っているのです。
とはいえソーシャルワーカーにも、それ以外のどんな人間にも社会学は役に立つという点で勧めることができます。なぜでしょうか。それはマックス・ウェーバー(ドイツの社会学者)による「社会学の価値自由」という古典的な表現の中に理由があります。価値自由とは価値を持たない、持つべきではない、ということではなく、社会学者として活動する限りでは、学問的誠実さという唯一の価値しか持たないのだ、という意味です。他のバイアスや偏見を理解し、制御しようと努めるのが社会学者なわけで、物事に対して価値判断をできるだけくださないのが社会学なのです。
ところで社会学の目標とはなんでしょう。社会学の目標とは対照を純粋に知覚するということです。換言すれば、人間に与えられた手段で可能な限り知覚するという行為が社会学の目標です。
社会改革者
このイメージは社会学の構想が始まった初期に由来します。フランス革命後、サン・シモンの思想を受け継いだオーギュスト・コントは「総合社会学」を進歩の学説として必要だと主張しました。進歩の学説ですから、社会の改良や改革を行うものとして率先して活動するのが社会学者だったわけです。最近はこういうイメージこそ薄れていますが、社会学者の原初的イメージとして間違ったものではありません。
人間行動に関する統計資料の収集者
このイメージが一番関与しているのは、擬似社会学的と呼ぶのが適切な多くの調査機関の活動です。とはいえ特にアメリカの社会学がこのイメージと無関係かといえばそうではありません。二十世紀前半アメリカでは理論研究から実証研究への埋没という流れがありました。調査技術の担い手としての社会学者がここで生まれたのです。しかし社会学理論に対する関心が1940年代以降復活してきて、視野の狭い実証主義から遠ざかる社会学者が増加しました。
ここで言って置くべきことは次のことでしょう。すなわち統計的データそれ自体は社会学を構成せず、その統計的データの解釈が社会学的であることはあり得るだけです。
科学的な方法論を発展させることのみに注力し、その科学的方法論を人間的現象に押し付けようとする人
社会学者が社会学を科学のやり方に見習ったのは、特定の科学的手続きに対する戒律を自らに縛ることで科学的であろうとしたからです。もし社会学者が自己の限界に忠実であり続けるならば、彼が述べたことは特定の立証規則を守ることによって導き出されるのでなければならない。そして、この規則とは、他の者が彼の発見を点検したり、再確認したり、発展させたりすることを許すものでなければならない。
こうバーガーは言います。
とはいえ、社会学者がユニークであったり、冗談を言ったりするのを妨げるものは何もありません。
科学においてテクニックに凝りすぎるとそのテクニック自体が不能になります。科学は新しい概念を生む活動を含むため、新語、造語は必要なものも時にはあるでしょう。
対象から距離を置いた観察者、冷酷な人間の操作者
あまり一般的ではありませんが、道徳的問題に関わる社会学者が増えたことに起因するイメージです。それでは、われわれは社会学者をどのように理解すべきであろうか。
バーガーはこう言います。
理念型としての社会学者
理念型とはヴェーバーの用語で、実際には存在しないが理念として研究対象や目的の姿を描いた像のことです。社会学者とは特定の学問的規律にしたがって社会を理解しようとする者のことである。社会学者が発見し論ずるところのものは、比較的厳密に定義された特定の準拠枠の中に現れてくるのである。
(中略)
社会学者は科学者として客観的になり、彼の個人的好みや偏見を脱却し、規範的に判断するのではなくて明晰に知覚することにつとめる。
社会学者とは人間の営みに対して徹底的に恥じらうことも倦むこともなく後列な関心を抱く人間である。
社会学の魅力とは、何気なく今まで生きてきた社会を、社会学の新しい視点によって新しい光の下で見直すことができるようになることなのです。そこに発見と興奮があります。
まとめ
社会学者には色々なイメージや偏見がつきまといます。それはどれもすべてが間違っているわけではありませんが、すべてが的を得ているわけでもありません。色々な根拠が社会学者のイメージにはありますが、社会学とは「理解しようとする試み」であり、それを超えた実践は社会学そのものではないのです。社会学的見解から人はさまざまな活動や行動に踏み出ることがあります。そうした活動が社会学者のイメージを形成しているのです。社会学はバイアスを極力正し、制御しようとする上でとても役に立ちます。つまり事物の実相をみるのに役立つ学問が社会学なのです。
社会学とは科学であり、その独自の科学的規律に基づいて観察などが行われます。物事は見かけ通りではありません。社会学者は娯楽としても社会学を楽しみますが、それよりも情熱的な心で社会学を行なっています。