『選択本願念仏集』の読み方:第一章私釈

仏教


さとやんです。今回も『選択集』の読み方をみていきたいと思います。
今回は一章の私釈をみていきます。

まず前回までのシリーズ記事の確認です。

①『選択本願念仏集』の読み方:概略
②『選択本願念仏集』の読み方:各章の意図
③『選択本願念仏集』の読み方:標題
④『選択本願念仏集』の読み方:第一章引文

リンクを貼っておきますので、こちらも読んでいなければ、また見ていただければなと思います。

前回は引文の解説を行いました。その引文に対する法然の解釈と補足説明が載っているのが私釈です。

第一章私釈は三つの意味の塊からなる

第一章の私釈ですが、これは大きく三つの意味の塊から成立しています。

  1. 浄土宗の目印
  2. 浄土宗の教え
  3. 浄土宗の法脈

上の三つのタイトルは、ふさわしいとぼくが勝手につけたものです。他の方が決めた言葉ではありませんので注意してください。
ではさっそくそれぞれについて、少し立ち入ってみていきましょう。

浄土宗の目印

浄土宗の目印というタイトルに、変に感じる方もおられると思いますので、少しだけ説明しておきます。
これは浄土宗と他の仏教の教えを分ける目印と言った意味です。法然が仏教の正しい分類分けをしようとしているのが、この箇所になります。教相判釈とよばれる自分が信じる教えの正当性を立証するまさに根幹部分となっています。まずは今までの教えを分類して、浄土宗の独自性をここで強調していると考えてもらえれば良いかと思います。
法然は思想史的に理路整然に分類しているとも言えるでしょう。
以下にこの部分の文の重要な部分を簡潔に記したいと思います。

浄土宗の目印の要旨

そもそもが、各宗派によって、自分たちの教えの正しさを説明する前の分類分けは異なる。
華厳宗、天台宗、真言宗など様々な教えが仏教をいろいろな角度から分類してきた。
では浄土宗が他の宗派の教えと決定的に違うのはなんだろうか。
これが(引文にあった)道綽の分類である。
聖道門と浄土門の二つに分けたものがそうだ。
聖道門はむずかしい修行をして悟りを得ることを目指す道、浄土門は往生浄土を目指す道である。
さらに浄土門には、一直線に往生浄土を目指す道と、他の修行のついでに往生浄土を目指す道の二つがある。
ただ一心に往生浄土しようとする道では、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)を典拠として、浄土への往生をめざす。

浄土宗の目印の補足

本文を見ればひたすら分類分けの紹介がなされています。そもそも何かを分けることの意味とはなんでしょうか。同じ種類のものと、違う種類のものを分けるということは、同じ種類のものの性質や共通点に着目できるわけです。一つだと考えられているものごとを、二つ以上のカテゴリーに分類することで、あるカテゴリーを別のカテゴリーと比較することで、そのカテゴリーの優位点や弱点、そのカテゴリー独自の性質などを明らかにすることができるのです。この法然の仏教の分類では、聖道門と浄土門に分けていますが、それは聖道門と浄土門の違いは何か、浄土門の優れているところは何か、などをこれ以降の部分で説明されることの前提となっているのです。
だからここでは、浄土門と聖道門が違うもので、何か比較を行うのだろうな、どこが比較されているのか、などを念頭に読んでいけば良いと思います。

浄土宗の教え

この部分は、一章の内容で一番大事なところだといえます。
なぜ浄土門を選ぶべきかが簡単にかかれています。
ではさっそく要旨を見ていきましょう。

浄土宗の教えの要旨

道綽は聖道門を捨てて、浄土門に入るべきだという。
そこで挙げられている理由は二つある。
一つは、開祖お釈迦様が亡くなって時間が経ちすぎているということ、
もう一つは、われわれの理解力が劣ってきて、聖道門の教えを理解できないということ。
聖道門の教えでは、もう悟りを得ることはできないから、浄土門に入るだというのだ。
ところで、道綽以外の有名な仏教者も、聖道門と浄土門の分類と同じような二分類をしている。
龍樹というインドの仏教者は、難行道と易行道という二つの分類を行っている。
難行道はむずかしい修行を行って悟りを開く方法、易行道は念仏のようなやさしい方法で浄土にいくことができるという意味だ。
難行道はそのまま聖道門に、易行道は浄土門に対応する。
浄土宗を学ぶ者は、次のことをよくよく心にとどめておきなさい。
例え聖道門を先に学んでいた人でも、浄土門の教えのほうがふさわしいと感じたなら、聖道門を捨てて浄土門に入りなさい。

浄土宗の教えの補足

前段をうけて、聖道門と浄土門の分類をもとに、浄土宗の教えについての説明がされています。
法然という人はかなり真面目な人でして、天台宗の教えを若くして極め、奈良に遊学して南都六宗の教えも学んでいます。でも修行法を実践しても、結局悟りが得られる気配が一向にないわけです。自分はなんて無力なんだ、と思うわけです。その無力感の根源が、お釈迦様がなくなってからとても長い年月が経つ末法において、われわれの理解力が低下しているという事実にある、と道綽は指摘しています。この末法での無力感は法然が特に重視する中国の仏教者である善導に引き継がれて、法然はその人の著作に触れて浄土宗を立てた、という経緯があります。法然は無力感の説明の源泉が道綽の『安楽集』にあることを確認し、それを『選択集』でも反映しているのだと考えられます。

浄土宗の法脈

浄土宗には、師匠から弟子に引き継がれる法脈というものが存在する、と言っている部分がここです。
菩提流支、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の流れを法然は特に重視しているようです。ここは要旨は載せません。

第一章私釈のまとめ

浄土宗と他の仏教をわける目印は、浄土門と聖道門という分類であり、その依拠経典として浄土三部経がありましう。浄土宗では特に今までの聖道門の教えで修行しても、自分たちの無力さから悟りなど開けないといういわばとても大事な共通の前提があり、この前提に同意する人は、すぐに浄土門に入れと法然は勧めているのが、この第一章の大事なところでしょう。
自分の無力さを受け入れることができるかできないか、これがここの要となりそうです。まずそれを知って、次章以降も読んでいくのが良いかなと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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